三、ヒルコとニギハヤヒ③―ニギハヤヒの不満とミナカタ―

「…あーあ…」


 ニギハヤヒはミナカタと別れ、家路を歩きながら、思わず声を上げる。


 今日も怠惰で無為な一日が過ぎていった。


 もはやニニギが地上に降りてから、あるいはミナカタからスサノオらと共に地上に降りたときの話を聞いてから、どれほどの年月がたったのだろうか。

 それを数えたことは一度もない。

 せいぜいずいぶん長いときがたった、ということが言えるくらいである。


 何しろ高天原という“永遠の世界”において、過去や未来のことを考えてもなんの意味もないのである。


 高天原という場所ができてから今に至るまで、特別に覚えておくべき出来事など数えるほどだ。特にニニギが地上に降りてからは本当に何も起こることがなかった。


 つまり高天原が今と比べて一年前や十年前はどう違ったかということや、あるいは一年後や十年後に今とどう変わるか、などといったことを考えることには今やなんの意味もないわけである。


 最近のニギハヤヒがやることといえば、せいぜいミナカタと共にこの“永遠の退屈”をぼやいたりすることくらいである。


(…それにしても…)


 ニギハヤヒは考える。


 この高天原にいる自分以外の連中はこの恐ろしく退屈な日常に疑問を抱いたりしないのだろうか?

 残念ながら今に至るまで、ミナカタ以外に高天原に不満を持っている者の話は一切聞いたことがない。


 あのスサノオでさえ、今では高天原についてなんの不満も漏らしていないらしいのだ。


 この高天原ではこの“永遠の退屈”に満足している者が圧倒的多数派らしいのである。


 そもそもこんなことを考えている自分やミナカタは頭がおかしいということなのだろうか?

 だがニギハヤヒとしてはいくら考えても、自分たちではなく高天原という世界とアマテラス以下この世界の住人の頭の方が狂っているとしか思えなかった。


 それと、ニギハヤヒにとって忘れ難いのはニニギが地上に降りたときの出来事である。


 あの時、ニギハヤヒはニニギと共に地上に降ることを希望していた。


 しかしその希望はタカギとオモイカネによって打ち砕かれた。

 タカギらによれば自分はニニギと共に地上に降りる者としてふさわしくない、とのことであった。


 このとき以来、ニギハヤヒはタカギたちのことを徹底的に嫌悪し続けていた。

 何しろあのとき自分がニニギと共に地上に降りていれば、今のように鬱屈うっくつした日々を過ごすこともなかったはずなのである。


 今にして思えば、あのときの一件こそ今の自分の不遇の元凶だったと言っていい。


「…くそが…」


 今の自分の状況に対する鬱屈と無力感。

 それこそが今のニギハヤヒの〝全て〟である。


「…すいません…」


 ぼんやりと考え事をしていたニギハヤヒの耳に、突然一度も聞いたことのない声が入ってくる。


「…あなたは…?」


 よく見ると、自分の家の入り口の前に見知らぬ老人が立っている。


「私はわけあって地上から高天原に来たものです!あなたの元にかくまっていただきたい!」


 老人はニギハヤヒを見ると、そばに駆け寄って来て訴える。


「…地上から高天原へ…?」


 ミナカタら以外の地上から来た者を初めて見たニギハヤヒは、この目の前の老人に強く興味をひかれる。


「こんなところを誰かに見られたら面倒だ!早く中に!」


 そう言うと、ニギハヤヒはすぐに老人を自分の家の中へと招き入れるのだった。



「ははっ、狭い家だけど、…まあくつろいでくれよ」


 ニギハヤヒは老人と自らの竪穴式住居の中に入ると、いくらか自虐的な風に言いながら地面に座る。


「いや、このように安心できる場所に入れただけでも十分です」


「そうだよな。あんたみたいな地上から来た者が誰かに見つかったら、そっこく地上に送り返されるのがオチだ。何しろニニギ様やその子孫たちのような、かつて高天原の住人たちの血を引く者たちでさえ、地上から高天原に戻ることは許されてはいない」


「やはりそうでしたか。うわさには聞いておりましたが…」


「へえ、そんなこと誰に聞いたんだ?」


「ニニギ様にです」


「ニニギ様?もう地上で亡くなられたって聞いたけどな」


「はい、残念ながら。生前は親しく交わらせていただきましたが…」


「そうか。まあ、ニニギ様と親しい者だっていうならあんたは悪いやつじゃあなさそうだな」


 ニギハヤヒは老人の言葉をすっかり信用する。


「そういえば、まだあんたの名前を聞いてなかったな。これからも“あんた”とかで呼び続けるのもなんだしな」


「はい、私の名前は“ナナシヒコ”といいます」


「ナナシヒコ?それはまたずいぶん変わった名前だな」


「ふふっ、地上というのは高天原の何倍も広いのです。それゆえこのような名前の者もいるということでございます」


「ふうん、そうか。ところでなんで地上から高天原に来ようなんて思ったんだよ?」


「はい、高天原はすばらしい場所だと聞いておりましたゆえ、一度この目で見てみたいものだ、と」


「それで実際見てどう思った?」


「確かに豊かですばらしい所ではあるのですが、いくらか閉鎖的なところもあるようだ。私のような部外者は自由に歩くことすらできない」


「そうなんだよ!」


 ニギハヤヒはナナシヒコの言葉に強く同調する。


「高天原は閉鎖的で息が詰まる!それにここじゃあ時が流れないから何も状況が変わらないんだ!まさに〝永遠の退屈〟ってやつだよ!何もかもがふざけた世界なんだ!」


 ニギハヤヒはナナシヒコに高天原への不満を次々とぶちまける。


「…そうですか…」


 その言葉を聞いてナナシヒコは少しの間うつむいて考えるようなしぐさをする。


「ということは、あなたの望みは“高天原を出ること”でよろしいですかな?」


「そうだ!高天原を出られるんだったら、地上でも、黄泉の国でもどこにでも行ってやるぜ!」


「そうですか、…ならば一つ提案があります」


「提案だと?」


「はい、私はあなたにこうして助けていただきましたが、それに対してまだなんの恩返しもできておりません。そこであなたを地上へと連れて行きましょう」


「なっ、そんなことできるのか?」


「はい、そしてその地上であなたを王にして差し上げます」


「なんだって、俺が地上の王に!」


「そうです。何しろあなたは高天原の住人だ。地上ではそれくらいの存在になったとしてもなんら不都合はない」


「…ふふっ、…はっはっはっはっ…!」


 ニギハヤヒはナナシヒコの言葉を聞くと、大笑いし始める。


「確かに俺は高天原の住人だ!そんな俺がこんなところでくだらない生活をしてるなんておかしい!絶対におかしいぜ!」


 そう言うと、ニギハヤヒは再び笑い始める。


「…よし、…あんたの提案を受けるぜ。俺は地上の王になる」


 そしてしばらく笑い続けたあと、さらにしばらくして、いくらか気持ちを落ち着かせてから、ニギハヤヒは答える。


「そうか、お受けなさるか。ただそのために必要なものが二つあります」


「それはなんだ?」


「まず一つ目はあなたと私、あるいはもっと多くの者が乗ることができる巨大な岩です。それでこの高天原を脱出します」


「…でかい岩か、…そういえばアマテラス様の宮殿の北東に大きな岩があるぞ。あれがいいな」


「ふふっ、岩のほうはなんとかなりそうですな。あともう一つはあなたが高天原の住人であることを証明するもの。例えば宝のような…」


「高天原の宝か、…ああ、そういえば宮殿の後ろ側にある倉庫には、十種類の宝が保管されてるって話だぞ。それを手に入れれば……」


「ふふふ、そちらの方も大丈夫ですか。それでは…」


「…ああっ、ちょっとこちらからも一つ話が…」


 突然何事かを思い出したようなニギハヤヒが、ナナシヒコに対して声を上げる。


「なんですかな?」


「何人かいっしょに連れて行きたいやつらがいるんだけど大丈夫かな?」


「ええ、問題ありません、ただ…」


「ただ、…なんだよ?」


「当然のことではありますが、今回のことを絶対に他に口外しない者、そして決して裏切ることのない信頼できる者以外は連れて行くことはできません」


「ははっ、大丈夫だ。俺の知り合いはみんな信頼できるやつらばかりだからな。さてと、気持ち的には今すぐやるべきことを行動に移したいんだが…」


 そう言うと、ニギハヤヒは立ち上がって入り口の前まで行き、扉を少しだけ開ける。

 外はすでに闇に包まれている。


「今はもうこんな時間だ。あんたとの話に夢中になっている間にずいぶん時間がたっちまった。悪いが今日は何もできない。あんたの言ったことをやるのは明日まで待ってくれ」


「ええ、構いませんよ」


「へへっ、すまねえな。じゃあ今日のところは早めに寝るとするか。そして明日の朝一番に行動開始と行くか」


 そう言うと、ニギハヤヒも、そしてナナシヒコも地面に敷いてあったむしろの上に横になり、眠りにつく。

 屋内を明るく照らしていた囲炉裏いろりの火も、やがてそのたき木を燃やし尽くすのだった。



「なあ、本当にすごい話だろ!」


 ニギハヤヒはミナカタに興奮しながら話す。


 ニギハヤヒはまず朝起きると手早く朝食を取った。そしてまずは十人の仲間に今回の地上に降りる件を話し、自分と共に行動することを誓わせた。

 そのあとは先にミナカタをいつも落ち合う場所で待ち、再び今回の件を話したのである。


「ちょっと待てよ!」


 だがニギハヤヒの予想に反し、ミナカタは今回の件に異議を唱える。


「こんな話絶対に怪しいぜ!」


「怪しい?どこがだよ!」


「話がうますぎるんだよ!それにだ…」


「それに、…なんだよ?」


「前にも言ったことあるだろ?もしお前が一度でもここを離れて地上に降りたら、お前はもう二度とここには戻ってこれなくなる。それは永遠の命を失うってことなんだぞ!お前は死すべき存在になるってことだ」


「はっ、死ぬことなんて恐れてねえよ!」


 ニギハヤヒはミナカタに強く反発する。


「俺はもうたくさんなんだよ!こんな退屈な所でつまらない時間を過ごすのがな!俺はここから逃れるためだったらなんだってする!もちろん死んだって構わないぜ!とにかく俺は絶対に地上に降りる!」


 あまりにも強硬なニギハヤヒの態度にミナカタは言葉を失う。


「…なあ、ミナカタ…」


 ニギハヤヒはミナカタの方をまっすぐに見すえて言う。


「…もう一度聞く。俺と一緒に来ないか?」


「…お、…俺は…」


「お前だって“ここ”には気に入らないことがいっぱいあるんだろ?ここにいれば今後もタカギやオモイカネには頭が上がらないし、よそ者として肩身の狭い思いをしながら生きていかなくちゃならないんだぞ。それでもいいってのかよ?」


 ニギハヤヒの言葉にミナカタは全く反論することができない。

 それは今のミナカタの状況と気持ちを、これ以上ないほど正確に言い当てている言葉である。


「…ふっ、そうかよ…」


 無言のまま立ち尽くしているミナカタに業を煮やしたニギハヤヒが言う。


「俺はこれでも今までずっとお前のことを友達だと思ってきた。でもそれもここまでってわけだ…」


 ニギハヤヒは肩をすくめて、吐き捨てるように言う。


「…じゃあな、…ミナカタ…」


 相変わらず立ち尽くしたままのミナカタに別れを告げ、ニギハヤヒはその場を立ち去る。


 それはミナカタが高天原でニギハヤヒを見た最後の瞬間になった。

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