第7話 刃は狐を仕留め、鳥を射止める。
泪聖が施す過酷な鍛錬は、麒麟児に相応しいだけの強さを刃月に与えた。
その鍛錬の内容は姉弟子や兄弟子よりも遥かに厳しいものである。里が保持する自然環境を最大限に利用し、思いつく限りの負荷を与えているようにも見えるその鍛錬は、二人の様子を知ろうとする者全てをぞっとさせるだけの迫力があった。
己を甘やかさない刃月が身に付けたのは強さだけではない。血を吐き、骨を折り、血を流し、地面に膝を付けた回数に見合うだけの美しさも手に入れる。その変貌の経過は華月すらも驚きを隠せないほどに見事であった。
鳥は鍛錬を積むほど外見が磨かれ、その変化は顕著に現れる。強い鳥が美しいと称えられるのはこのためだ。
まだ元服の儀を迎えて十年ほどしか経っていないというのに。まだまだこれからという若者なのに、幹部であるかのような風格を纏う刃月の評判が里の外にまで漏れてしまうのは時間の問題だった。
「刃月の存在は他の妖に知れ渡ることとなった。だけど、普通なら大した問題じゃない」
妖同士が常に争っている訳ではない。
大昔は縄張り争いや飢饉による人肉不足でいがみ合うことも多かったが、現代はある程度の共存が必要な世の中になった。
あっけないほどに妖の魅力に屈する人間。だが餌である人間も馬鹿ではない。特異な力は持たずとも進化・発展し、独自の社会を創りあげている。機械の製造や宇宙への進出など、妖が太刀打ちできない分野も多い。油断すれば同胞を危険に晒しかねないのが現状だ。
そんな中、この共存姿勢を良しとしない妖が居る。
「刃月に目をつけたのは鳥の天敵。よりにもよって、妖狐“
“野瀬”一族。
妖狐の同族として名を連ね、過去に鳥とは四度にわたって大戦を繰り広げた天敵である。現在は停戦条約を結んでいるものの、名ばかりの状態に等しい。
妖狐とは中国もしくは日本に伝わる狐の妖怪だ。書物によって人間にも広く知られた大妖怪である。しかし一括りに妖狐といっても派閥の数は多く、明確な階級が存在する。野瀬一族は最も低級な部類にあたり、同族からも疎まれているようだった。
「野瀬一族の愚かさはお前達も知っているだろう」
後先のことを考えずに人間の女を犯して食い散らかし、一時は「連続猟奇殺人事件!」と人里を騒がせた。その影響で人間を主食とする妖が行動しにくくなってしまい、捕食するのにわざわざ遠方まで足を運ばなければならない事態になった。今も恨まれているのは言うまでもない。
また、年中発情期といっていい雄の特徴も嫌悪されている一因に含まれる。
鳥と違い、野瀬一族は子供を作るのに制限が多い。
まず、妖狐は人間に子を産ませることができない。必ず妖狐同士で番わなければならないが、昔から雌が生まれにくい傾向にあるため番うことが難しい。しかも貴重な雌を娶ることができるのは幹部のみと定められているので、他の雄たちは雌と交尾ができずに欲求不満が高まる。結果、雌を犯したい不満を残虐行為にぶつけることで発散させるという悪循環が生まれていた。
襲われるのは女だけではない。欲を鎮めるためなら子供や若い青年も襲う。贄が生まれ持った穴を気遣うことなく、容赦なく蹂躙し、どんなに抵抗されようと行為を止めない。その声が止むのは贄が絶命した時だ。
人間だけならまだ良かったが、妖狐は他の妖の雌も攫って同様の行為をするのでかなりの数の妖から恨まれていた。ようやく孕んだ愛しい番を奪われ犯され、腹を裂かれ、赤子まで食われてしまった者も居る。彼らの怒りと絶望は計り知れない。
「子孫繁栄の意味では妖狐も気の毒な一族だとは思うよ。番を娶った幹部でさえ、発情期を狙って交尾しないと子ができないのだから」
鳥は妖の中では珍しく発情期というものが無い。人間と同じように年中子作りが可能だ。相性のいい人間なら一年経たずに孕ませることもできる。鳥同士となると恐ろしく時間がかかるが、時期を伺うことなくどちらとも子を成せる点は大きいだろう。
「この里は結界を何重にも張っているから妖狐も侵入はできない。だけど、狡賢い数匹の妖狐が刃月をおびき出すことに成功した」
「あの刃月様が妖狐の罠に? それは本当ですか?」
刃月が妖狐を倒した逸話は帝麗も帝牙も知っている。幼い頃から何度も聞かされてきて、最後に父は必ず「お前達の叔母様は凄いお方なんだぞ」と締めくくる。しかし、今聞かされているのは父が話してくれた内容よりも詳しい。
「妖狐達は近くの神社に居た見習いの巫女を半殺しの状態にして、里の近くまで連れてきたんだ」
鳥の嗅覚は鋭い。その血が鳥のものなのか人間のものなのか、はたまた動物のものなのか判別が出来るほどに発達している。
「刃月の母親は巫女だ。妖狐もそれを知ったうえで巫女を使ったんだろうよ。そして奴らの思惑通り刃月は里を抜け出した」
「余程の用が無ければ里を出ることは許されないはずですが、何故刃月様は外へ行かれたのでしょう」
「里を護るためという大前提があるなら多少の融通は利くさ。ましてや強さに定評のある刃月だ。たとえ長老や泪聖に許可を貰いに行ったとしても許されただろうよ。まぁ……その時は幹部の誰かが付き添っただろうけど」
華月は遥か昔を思い出す。
最愛の妻が産んだ最愛の子が妖狐に襲われたと報告を受けたあの晩のことを。
誰にも心を明け渡さず戦でも動揺しなかったあの泪聖が、血色を変えて飛んでいったあの晩のことを。
* * *
その日、泪聖は華月の屋敷に呼ばれていた。刃月の近況を聞きたいとしつこくせがまれたためである。華月は娘の躍進を心から喜び、泪聖もまた久しぶりに手にした出来のいい弟子を大層褒めた。
そろそろ屋敷を出ようとした時、華月の敷地に大慌てで入ってきた鳥が居た。
刃月の姉弟子と弟弟子である。
「森の奥で自主練に行ってまいります。正午過ぎには戻ります」
そう言って朝から出て行った刃月が夕方近くになっても戻ってこない。これまで口約束を破ったことの無い刃月だ。何かがあったに違いないと踏んだ姉弟子たちが泪聖に報告をしに来たのだ。
事態を耳にした幹部二人は即座に表情を引き締め、先ほどとは打って変わった威圧感を放つ。泪聖は数秒だけ考え込んだ後に命じた。
「華月。お前は長老への報告と護衛に回れ」
「了解。捜索は?」
「探索に適した鳥を
「伝達しよう。他の五羽貴は?」
「皇華は俺と同じく探索を。
「了解」
「俺達は先に探索を始める。何かあれば狼煙を上げろ」
荒々しく戸を開けて駈けていく泪聖の背には漆黒の大きな翼が生えていた。普段は術で肉体の中に無理矢理収めているが、有事の際には走るよりも飛んだほうが速い。
師が翼を出すのを確認した姉弟子たちは、同様に術を解いて背中から髪と同じ色の翼を出現させると瞬く間に部屋から消えた。
華月は小さな声で娘の無事を祈った後、いち早く長老の元へ駈けつけるために立ち上がった。
多くの鳥が動員された。
刃月の探索。
里の結界の確認巡回。
鳥の特別な領域の警備。
里の居住地の警備。
泪聖が弟子を引き連れて探索を始めてから二時間ほど経った頃、微かな気配を察知した。
傷を負った妖は敵に見つからないように気配を最小限にまで殺す。気配を完全に断つことも可能だが、出血を抑えたり痛覚を鈍らせることが難しくなるためギリギリを見計らって耐え忍ぶのだ。
泪聖はその微細な気配を追った。蜘蛛の糸ほどに細く小さな気配。過度に焦れば見逃してしまうだろう空気を逃がさないように必死だった。
あれほどまでに真摯で貪欲な鳥は居ない。この世から消えるには余りにも惜しい逸材だ。あってはならないことだ。
何よりも、手離したくない。あれの成長を見届けるのは師である俺の役目だと泪聖は改めて決意する。
気配の在り処まで辿り着いた時。その場は血の香りがこもる凄惨な光景が広がっていた。
まず、一番近いところに女の死体が転がっていた。
全身がズタズタに引き裂かれ、真っ青に腫れて血だらけになった顔。真っ白だっただろう巫女装束は血で赤く染まり、もはや服としての用途を成しておらず布切れも同然で脚や胸が丸見えだった。腹はぽっかりと昏い穴が開き、臓物は食い荒らされている。脚の付け根には精液らしき白濁液がたっぷりこびり付いており、絶命前に何をされたのか一目瞭然な程にその身体は痛めつけられていた。
そこからさらに離れたところに三体の妖狐の死体が転がっていた。
歳は恐らく百を超えているだろう。死体といえど多少は外観からも戦力を伺うことができる。筋肉が隆々と発達しているのは戦闘型の特徴だ。そして戦闘経験も豊富だった個体なのが分かる。元服前の鳥なら殺されても仕方ないレベルだ。
三匹の中でひときわ優秀だったと思われる妖狐の損傷が一番酷く、天敵といえどその加減の無さが見て取れる死体の有様に弟子たちは口を閉ざす。眼球は二つとも抉られ、喉は潰され、雄の象徴は燃やされ、内臓は引き摺り出され……憎悪を全てぶちまけたような私刑の執行。
それを行ったのは、この場に居る誰よりも若く、経験が浅いはずの刃月なのだ。
泪聖は妖狐の死体から離れた茂みの奥から漏れるか細い呼吸の音を聞く。一目散に駈けて、茂みをかき分けながら進めば、ぼろぼろの状態で力なく横たわっている刃月の姿が在った。
「刃月……っ」
泪聖は刃月をそっと抱き起こす。痛みが走ったのか少しだけ苦しそうな呻き声が上がった。
見える範囲の肌は血で汚れている。犯すのに邪魔だと判断された着物は乱されたようで、裾ははだけて乳房や脚の付け根が見えそうになっていた。着物で覆われた部分は殴られて痣が残っているだろうことも簡単に予想がつく。抱き起こすだけの些細な介助で声を漏らすのだから。
気配を最小限に抑えるため呼吸もとても静かだ。命の灯火が消える寸前のような儚さだ。
泪聖は自分の唇を噛み千切る。ぷつりを切れた部分から鮮血が溢れた。それを口の中に溜めると、浅い呼吸を繰り返す刃月の唇に口付けた。
それは只の接吻ではない。
鳥は自身の体液──唾液、血液、精液、膣の分泌液など──に妖力を含ませて他者に与えることができる。与える側が高位であるほどにその効果は凄まじい。傷から吸わせることも可能だが、口からのほうが唾液も混ざるので効果も倍増になる。
泪聖の血を飲んだ刃月の傷は少しずつ塞がっていき肌の血色も良くなった。完全治癒とまではいかないが呼吸も通常のものになり、無意識でも守ってくれる者が傍に居ることを感じたらしい刃月は安心しきったように泪聖に身を預けた。
「よくやったな。まだ四十そこらなのに妖狐を……三匹も倒すとは」
泪聖は眠る刃月を見下ろしながら褒めた。
四十歳という年齢は鳥にとってはまだまだ若造である。これから経験を積んでいこうとする段階だ。そんな状態で妖狐一匹を殺害することはまず不可能だ。戦い方のいろはも術の使役も完璧ではないのだから。
だがその偉業を刃月はやってのけた。
只の妖狐ではない。百歳を超えた経験豊富な雄を三体も、である。
「泪聖! 刃月は無事か!?」
姉弟子たちから事情を聞いたらしい皇華──華月の実弟である──が後ろの茂みから姿を現す。泪聖が抱きかかえている姪を見やると、訝し気な表情を浮かべた。
「ああ? 無傷だったのかよ」
「つい今、血を与えたところだ」
「だよなァ。いくら野瀬といっても無傷で殺ってたら今頃は五羽貴入りしてるぜ」
「ああ。長老候補に推薦されても可笑しくないな。俺の座も明け渡さねばならん」
「ははっ、言うじゃねえか!」
軽口に乗ってくれた泪聖が嬉しい皇華は豪快に笑い飛ばす。妖狐と戦いたかった不満はあるものの、弟子の健闘を確認することができて上機嫌な兄貴分を眺めるのは気分が良い。
「里に戻るだろ。俺が運ぶぜ?」
ほらよ、と言わんばかりに皇華は両手を差し出す。大した意味は無い。五羽貴のトップに運ばせるのも失礼かと彼なりに配慮した結果だった。
だが泪聖は静かに首を振る。
「その必要は無い。俺の弟子だ。俺が運ぶ」
「そうか」
「皇華。
「お安い御用だ。報告しだい念のために何人か巡回に連れて行こうと思うがいいか」
「ああ。頼んだ。刃月もかなり負傷していたからな。こんなのが里を徘徊してたら大変だ」
「見つけたら嬲り殺しにしてやるよ」
皇華は口の端をにやりと上げながら去っていった。
泪聖は抱きかかえていた刃月をそっと地面に横たえる。その優しい所作を誰も見ることが叶わなかったのは非常に残念なことだ。
「気に食わんな」
泪聖は死体が転がる場所へ飛んだ。
まず、妖狐全員の頭と手を踏み潰す。ぐちゃりと果物が潰れたような音がした。
そして間を置かずに無言で炎の術を発動させると、地獄の業火を思わせるような火柱が妖狐たちを包んだ。死体は何も叫ばない。ただ焼かれていくだけの様子を眺めながら、泪聖は忌々しそうに舌打ちする。
「俺のものに手を出そうとは愚かなことだ。生きていれば俺が直々に始末してやったものを」
数分も経たずに妖狐は消し炭と化した。骨も残っていない。否、存在の欠片さえ現世に残すことを許さなかった。
滅葬を終えた泪聖は刃月のもとへ戻る。その表情は既に柔らかいものに変わり、只々弟子の寝顔を見つめていた。
「刃月よ。お前は嫌がるだろうが、三日間は修行を休ませるから覚悟するがいい」
囁くように告げると、師は弟子を両腕でそっと抱えながら空へ飛び立った。
* * *
「その日を境に、泪聖は変わった」
ようやく泪聖に感情というものが宿ったのだと華月は思った。
戦闘で見せる高揚とも、修行で見せる興奮とも違う。刃月を眺める瞳に静かな炎が灯っているのだ。他者を慈しむ温かい情。それを鳥や人間は恋と呼び愛と表現する。
数百年も不愛想だった鳥に芽生えた僅かな変化を見極められるのは里でも数える程度だった。感情の機微に疎い皇華に至っては最後の最後まで気付かなかったという。
「泪聖は刃月を愛し、最初は恐れ多いと戸惑っていた刃月も次第に泪聖の愛を受け入れるようになった」
ただ強い雌だという単純な理由ではない。それならば泪聖は五羽貴に籍を置く雌──露洸や輝定──と番い、子を成している。
巡り会わせとしか言いようがない。
泪聖という雄が数百年の時を経てやっと刃月という雌に出逢い、鳥としての姿勢や生き様を見守った結果、誰よりも近くで支える権利が欲しいと。真の意味で他の雄に渡したくないと感じたからこそ彼女を求めたのだ。
そして二人は番として長老に認められる。
泪聖、二百七十五歳。
刃月、六十歳。
刃月が妖狐を討伐してから二十年後のことであった。
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