6-10 戻っておいで



 清婉せいえんはこの数日、気が気でなかった。


 主である無明むみょうが目覚めたのはいいが、白笶びゃくやの状態を知った途端、寝台から飛び出していった。それ以来、白笶びゃくやの寝ている部屋に引きこもってしまっているのだ。


 あの騒ぎの後、朎明りょうめい無明むみょうの持ち物や衣裳を宿に届けに来て、自分たちに深く頭を下げてきた。竜虎りゅうこ清婉せいえんもそれには慌てる。


 こちらの事は気にしないで欲しいと伝えて、とりあえず朎明りょうめいには帰ってもらったのだが······。


 扉を少しだけ開けて中を覗いてみるが、無明むみょうは寝台の上でぴくりとも動かずに眠っている白笶びゃくやの右手を握っていた。


 あの日から、無明むみょうはほとんど食事も取らず、寝てもいないようだった。


 竜虎りゅうこがさすがに心配し、食事だけでもするようにと言ってくれたおかげで、それまで一切手を付けていなかった膳が少しだけ減っていた。


 昼間だというのに、その部屋はどこか暗く感じる。きっと、無明むみょうが笑っていないからだろう。いつもの明るい声も、楽しそうな笑い声も、調子の外れた笛の音さえ聞こえないのだ。


白笶びゃくや公子もあんな大怪我をして、しかもそれが無明むみょう様のせいだなんて、)


 さすがの無明むみょうも落ち込まないはずがない。


 あの後、竜虎りゅうこから聞いたのだが、無明むみょう蘭明らんめいに操られて、それを止めるために白笶びゃくやが大怪我をしたのだという。


 竜虎自身も見たわけではなく、無明むみょうから聞いたらしい。つまり、無明むみょうは操られながらも、目の前の光景を見ていた事になる。


無明むみょう様、入っても良いです?」


 せめて衣裳を着替えてもらい、許されるなら髪の毛も整えてあげたかった。何度か試みてみたものの失敗に終わっているのだが、清婉せいえんはどうしても世話を焼きたい気持ちになる。


「あ、えっと、清婉せいえん? なにか用?」


 力の抜けた笑みを浮かべ、無明むみょうは無理にこちらを見上げてくる。そんな顔をさせたくてここにいるわけではないのに、なんだか胸の辺りが痛い。


無明むみょう様、着替えましょう? その衣裳、私はあんまり好きじゃないです」


 なんだか無明むみょうではない別のモノに思えるその白い神子衣裳に、素直な感想を清婉せいえんは述べる。


 手に持っている衣裳は、麗寧れいねい夫人が礼にと無明むみょうにくれた上等な黒い衣で、あんなことがあったが無事に戻ってきた物だった。


「そうだね······さすがに着替えた方がいいよね」


「はい。お手伝いしますから、ついでに身体も拭いて、髪の毛も整えましょう? 白笶びゃくや公子が目覚めた時、そんな姿ではさすがに言葉を無くしますよ?」


 自分で言って、清婉せいえんは違うかも? と心の中で呟く。そもそもほとんど口を開かないひとだった······と小さく笑う。


 清婉せいえんは大人しくされるがままになっている無明むみょうの衣裳を脱がせ、持って来ていた桶の中のお湯に布を浸して、しっかり絞る。


 長い髪の毛は一旦適当に括って、布で背中を軽く拭っていく。ふと、右の腰の辺りに痣を見つけ、思わず息を呑んだ。


「綺麗な花びらの痣ですね、」


「······そう、かな、」


 それは五枚の花びらのような痣で、清婉せいえんは本当に美しいと思って言葉に出していた。


 それに対して、困ったように無明むみょうは笑う。

 その笑みはどこかいつもの主らしくなくて、不安になった。


 清婉せいえんはそれ以上問うのを止め、手だけを動かす。生白く細いその身体は、心配になるほどで、これ以上痩せられては困ると心の中で思う。とにかく、明日からは自分が料理を作って、無明むみょうに食べてもらおうと心に決めた。


 身体を拭い、衣裳を着替えさせ、そのまま部屋の椅子に座らせる。美しい黒髪を櫛で梳きながら、整えていく。


 赤い髪紐を手に取り、ひとつに纏めて括ると、いつもの無明むみょうがそこにいた。安堵して、清婉せいえんはそっと肩に手を置く。


無明むみょう様、白笶びゃくや公子は大丈夫です。だってあのひとは、すごくお強いのでしょう? それに、無明むみょう様が悲しむ姿なんてきっと見たくないはずです。だから、すぐに目を覚ましますよ」


「うん、そうだね。ありがとう、清婉せいえん。着替えて綺麗にしてもらったら、なんだか少し気分が良くなったかも。何か作ってくれる? 清婉せいえんのご飯が食べたいな、」


無明むみょう様······はい! もちろんです! 明日からじゃなくて、今日から私が腕によりをかけて作りますからねっ」


 ふふっと無明むみょうは笑う。そのなにか違和感のある笑みに、清婉せいえんは嬉しさのあまり気付けずにいた。


 いつもならば、へらへらとした顔で嬉しそうに笑う無明むみょうが、優しく微笑を浮かべ、小さく音を立てて笑っていたのだ。


 どたばたと慌ただしく出て行った清婉せいえんの背を見送り、無明むみょうは椅子からすっと立ち上がる。


 ゆらゆらと頭の天辺で括られた長い髪の毛を揺らしながら、愛しいひとの許へとゆっくりと近付いて行く。寝台の横に膝を付き、白笶びゃくやの手を両手で包むように握りしめ、そのまま自分の頬に触れさせる。


「ごめんね······私は・・、君を傷付けてばかりだね、」


 翡翠の瞳を細め、眠ったままの白笶びゃくやを見つめる。


 愛しい。

 愛しい。

 大好きな、ひと。


 今更、どうして、戻って来てしまったのか。

 あの子はどこに行ってしまったのか。


 ちゃんと戻って来てくれないと困る。


 でないと、せっかく諦めた夢の続きを見てしまいそうになる。


(早く戻っておいで······だれも君を責めたりしないから、)


 それまでは、ここにいる。

 白笶びゃくやが目覚めた時に、君がいないと駄目だから。


「忘れないで? あの時、白笶びゃくやが好きだと言ったのは、私に・・向けたものではなくて。ただひとり、君への想いだったってことを」


 ねえ、そうでしょう?


 無明むみょう



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