環さんのこと
01
木製の箱の表面には、彼女が持参したよみごの札が四方に貼られていた。静かだが、中で何かが蠢いているような気配がかすかに感じとれた。
いつまで保つだろう、と環は考えた。やはりこの箱は、
まりあに何もかも背負わせるべきではない。まだ幼いと言ってもいいような女の子だ。まりあの声は、環が発するよりもかなり下の位置から聞こえる。小柄で華奢な、小鳥のような少女だ。こんな危険なものを育てていたとは信じられないくらい、無垢で優しい子だった。
この箱は時限爆弾のようなものだ。手元に置いて札で固めているだけならまだしも、それだけではいつか破綻するだろうことが目に見えている。
とにかく、この箱は故郷に持ち帰らなければならない。自分の力ではこのふたつの化物を消すどころか、箱の中の状態を詳細によむことすら難しい、と環は判断した。まずは妹尾のところに持っていくべきだ。あの町に戻れば、ほかのよみごと連携をとることもできる。
自分ひとりの手には負えない。まりあはすごいと褒めてくれたけれど、それでも環には、自分の才能の乏しさに歯噛みする瞬間が度々訪れる。どんなに努力しても、それだけでは覆せないものがある。妹尾と同じだけ年齢を重ねたとして、彼女のようなよみごになれる自信はまるでない。このわずかな力がある日突然失われるんじゃないかと考えてしまって、不安になることもある。自分と年の近い後輩にあっという間に追い抜かれたときには、正直ひどく焦ったし嫉妬もした。今だって、箱を捨てて逃げ出したい気持ちがないわけではない。
環は深く息を吐き、ともすれば心を満たそうとする負の感情を、呼気と共に吐き出そうとした。
山津家に憑いていたものの「素体」の名前がわかりさえすれば――環は何度も考えたことをまた反芻する。それさえわかれば、よみごはああいったものを消すことができる。だが、あれの場合はそれがわからない。古いし、あらゆる記録が抹消されている。名前がわからないのだ。だから一度に葬ることができない。少しずつ力を奪って、地道に小さくしていくのがおそらく最善策だ。それには時間も手間もかかるし、技術が試される。
つまり、この案件は自分の手に余る。元々この街には妹尾の伝令役として来ただけで、問題自体を解決できるとは思ってもみなかったのだ。とはいえこうなった以上、できることをやっていくしかない。
総合病院の広いロータリーを、環は白杖を鳴らしながらぐるりと回るように歩く。そのとき、ふと何かが背後を通り過ぎるような気配を感じた。
生きている人間ではないことが、環にはすでにわかっていた。さっきまりあの病室を出てから、自分の後をついてきているものと同じだ。視力を失って久しいはずの彼女はしかし、独特の感覚によって足音の主を見ていた。
(来た)
おそらく、この箱についてきている。環は静かに唾を飲んだ。
わざと何も気にしていないかのように、前を向いてすたすたと歩いた。タクシー乗り場まではあと数メートル、前方に人の気配はない。タクシーを捕まえて、すぐ駅に向かおう。そう思ったとき、環のショルダーバッグの中でスマートフォンが振動した。
着信だ。妹尾かもしれない。彼女は通路の端に寄り、左腕に箱を抱え直してから、バッグからスマートフォンを取り出そうとした。
そのとき、コントロールを失った一台のタクシーが、まるで環に吸い寄せられるかのように、タクシー乗り場に突っ込んできた。
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