第34話 影印

 結局のその日、室長の席は空いたままだった。持永は仕事のきりがつくたび、オフィスの自動ドアを眺める。少し自由奔放なところはあるが、彦根が人一倍仕事熱心なことは知っている。仕事を放りだし、無断で遊び惚けるような男ではない。


 彦根がハイヤーから降りた後、独りでサイバー庁に帰った持永はすぐにその事件を知ることになる。デスクに荷物を置き、椅子に座った瞬間、EYEに速報の通知が来たのだ。国際展覧会にて生嶋総理消滅という目を疑うようなニュースだった。まさかまた彦根は事件に巻き込まれたのだろうか。それならすぐに連絡が来るはずだ。

 だが持永のEYEはそれっきり沈黙を守り、彦根からのメッセージも病院からの連絡も何もなかった。


 翌日、事件はさらに拡大していることが報道された。あの国際展覧会に参列した要人が同時多発的に殺されている。あの場からすぐに逃げたのにもかかわらず、皆何者かによって銃弾を撃ち込まれ、消滅しているのだ。

 生嶋以外には著名人が五名ほど消え去り、この事件は人々を震え上がらせた。これはヒューノイドが体感する初めて死だった。国民はパニックに陥り、サイバー庁も多忙を極めた。インターネット回線があまりの混み合いで異常をきたしのだ。この事件で株は暴落し、円の価値も急下落した。たった一日で日本は混乱の渦に巻き込まれ、収拾がつかなくなっていた。

 幸いなことに死者の中に彦根は含まれていなかった。持永は少しの安堵と、さらなる不安に苛まれる。いったいどこで何をしているだろか。一日経った今も連絡はない。あれだけ連絡をまめにする男が丸二日も消息を絶つとは万に一つも考えられないのだ。

 だだこんな時だからこそ、持永は彦根から託された使命を思い出す。


「持永君、君はこの事件を極秘裏に調べてくれ」


 彦根は確かにそう言った。いまは行方不明の彦根のことを考えていても仕方がない。業務で多忙ではあるが、この事件が例のゴーストと関連していることは確かなのだ。ここで何もせずにただ茫然としているわけにもいかない。持永はその日の夜、たった独りでサイバー庁に残り、インターネットをパンクさせる要因となった、各種のSNSに探りを入れた。

 この事件のことに絞り込み、検索をかけると、膨大な書き込みが目の前を埋め尽くす。

 だが逆に言えば、これだけ多くの書き込みがあれば何か一つくらい核心に近づくものがあるのではないだろうか。持永は自らの頬を叩き、気合を入れ直すと、その作業に移ったのである。

 それから何時間が経っただろうか、オフィスに朝日が差し込んできた頃、ある一つの書き込みに目が留まった。


――ついに渾沌が動き出しやがったな


それはかなりマイナーな掲示板に書き込まれた一言で、その書き込みに対してのレスポンスも未だ来ていない。

 渾沌……そのようなワードは聞いたことがない。これが一個人を示す言葉なのか、そとも組織なのか。この渾沌という言葉がゴーストに何かしら関係しているのではいだろか。持永はブラウスのボタンを開けると、目を閉じて、背もたれに体を任せた。

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