第19話 演説者
彦根と持永を乗せたハイヤーは都内を走っていた。内閣府で公務を終えた二人は沈黙のまま、車内でデジタル化された手記に目を通している。サイバー庁に帰ってからはすぐに書類づくりに取り掛からないとならない。昼食を摂る余裕がない程に忙しい。車窓から見える昼下がりのサラリーマンを横目に、時速六十キロで駆け抜けていった。
頭を悩ませることは山ほどあるが、それを脳内の端に追いやって仕事に集中する。世界の変革は誰も望んでいないのだ。そのため普遍的な日常が彦根を取り巻いて、その足を日常という沼地が引き込んでいく。変化しないことはどれほど楽な事か。人は変化を恐れるがゆえに、憂慮し、躊躇し、想定する。皆、見えない未来が怖いからこの日常にしがみ付こうとするのだ。
例えこの現実が辛いものであったとしても、幸せになることすらも恐れ、ただの毎日に陶酔するのである。
だが人類にとっての大きな転換期の一端を任された彦根は体を伸ばして、日常から手を休めた。
「室長、お疲れですね」
「分かるか?」
「ええ、疲れた顔をしています」
「そんなものはない」
彦根は口角を上げ、嘲笑気味に言った。
「でも疲れていますよね。宮部先生とお会いした日から」
「政治家なんかと密室で会えば、誰でも疲れるものさ」
彦根はそう言って、大きなあくびをした。
その瞬間である。緩めた体が目の前の助手席に叩きつけられた。後部座席に座っていた彦根の体に慣性が働いたのだ。大きく前につんのめり、助手席のヘッドパッドに手を突きながら言った。
「何事だ……?」
窓から周りを見渡すと、他の車も立ち往生している。どうやらこの先に何かが起こっているらしい。ここ一帯で大規模な渋滞を起こっているようだ。
異変に気が付いた持永がすぐにこの渋滞の原因を調べて、彦根に報告する。
「デモ隊が道路を塞いでるようですね」
「迷惑な……」
彦根はそう言いながら、頬杖を突いた。
「進みそうにありませんね」
特別延命処置法に対するデモだろう。近頃は頻発している。それによっていたるところで渋滞が発生しているとの報告もあった。ロボットがいかに円滑に、合理的に交通整理を進めたところで車道に躍り出たデモ隊を轢くわけにはいかない。
ロボットだけではどうにもならないため、機動隊も出動して、抑え込んでいる。だが抑え込めば抑え込むほどのその反発は増大していく。デモに参加した者の逮捕者は毎日のように更新され、機動隊のデモ隊の武力的な激突はなくとも、まるで内戦のような重々しい空気が都内を覆っていた。
「それにしても平日の昼間からよくこんなに人が集まったな」
「この先で国際展覧会の開会式が開かれているらしいですね。そこで生嶋総理が演説をするとか、その抗議でこんなに人が集まったみたいです」
ハイヤーの窓を開け、頭を出すと、大きなドーム型の施設が目に留まった。色彩豊かなアドバルーンが打ち上げられ、施設内も外も違う意味で盛り上がっている。
こんな場所でいくら訴えかけたところで何も変わらない。もしかたら本気で訴えているのはほんの一部の人間だけなのかもしれない。だから祭り気分で余計に人は集まり、同調が生まれて、その場だけの政治的思考で突き動かされるのだ。デモも一種のプロパガンダである。
「小一時間はこのまま変化がなさそうだな」
「そうですね、他に迂回路もありませんし……」
彦根は小刻みに貧乏ゆすりをすると、ハイヤーのドアを開けた。
「室長、どちらに行かれるんですか」
「ちょっと見に行ってくる」
「デモに出巻き込まれでもしたら危険ですよ」
「デモを見てくるわけではない。総理の話を聞きに行ってくる。君はハイヤーの中で待っていてくれ。もしも進みだしたら、君独りで帰っていいからな。私は電車で庁舎に戻るよ」
「あんな事故に巻き込まれたのに懲りてないんですか」
「電車は庶民にとっての重要な移動手段だ」
彦根はそう言うと、ハイヤーのドアを締め、周りを見ながら、渋滞する車の中を歩いていった。
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