第53話 紅に染まる帰り道

「……はぁ」

「どうしたの黒川きゅん。ため息なんかついちゃって」


 落ち込む俺に白崎が尋ねる。

 帰りのバス、俺達は最後尾の席に陣取っていた。

 窓の外はオレンジ色で、見知らぬ街の風景が俺の心を寂しくさせた。


「……情けないんだよ。あんなに頑張って教えてもらったのに、結局泳げるようにならなかったし」


「そんな事ないよ。バタ足は出来るようになったし、息継ぎもちょっとは出来るようになったでしょ? 最初と比べたらすごい進歩だと思うけど」


 そりゃ、つきっきりで教えてもらったのだ。

 少しくらいは泳げるようになるだろう。

 でも、本当に少しだけだ。

 白崎の労力に見合った結果が出せているとは思えない。


 ……いや、本当はそんな事で落ち込んでいるわけじゃない。


「……けど、俺のせいで白崎は遊べなかっただろ。ウォータースライダーとか流れるプールとか、楽しそうなのは色々あったのによ。ずっと俺の練習に付き合わせちまった。これじゃなんの為に来たのかわからねぇよ」


 それが俺は心残りだった。


 昼食を食べた後、一ノ瀬は西園寺のお昼寝に付き合って、その後は幾つかあるウォータースライダーを制覇したり、打たせ湯を浴びて修行ごっこをしたり、水着のまま入れる温泉につかったり、ウォーターパークを遊び尽くしていた。


 帰りのバスだって、楽しそうに思い出を語っていた。


 遊び疲れたのか、今は西園寺を抱っこしてぐーがーいびきをかいている。で、西園寺は一ノ瀬の腕に抱かれて、赤ちゃんみたいにちゅぱちゅぱ指をしゃぶって眠っている。


 二人の満足そうな顔を見ると、こっちはいい気分転換になったのだと思える。

 けど、白崎は違う。

 最初から最後まで、つまらない練習用の四角いプールで俺の手を引いていただけだ。


「黒川きゅん、そんな事気にしてたんだ」


 例によって白崎は、によによと面白がるような表情で俺の顔を覗き込む。

 なにが面白いのか、俺にはさっぱりわからない。

 本当なら、つまんなかったと不貞腐れる場面だろうに。


「……だってそうだろ。本当は、白崎のご褒美って話だったんだ。なのにこれじゃ、疲れに来ただけだろうが」


 俺の言葉に、白崎は悪戯を思いついた子供みたいににんまり笑う。


「そう? じゃあ、追加のご褒美を要求しちゃおうかにゃ~」


 そう言うと、白崎は俺の肩に身体を預け、腕を絡めてきた。


「おい、白崎!?」


 焦った俺は、息を潜めて言った。


 俺達の姿は、前の座席である程度は隠れている。けれど、そうは言ってもバスの中だ。それに、すぐそばでは一ノ瀬達が眠っている。そうでなくとも、俺と白崎はそんな関係じゃない。こんなカップルみたいに密着して腕を組むなんて、いけない事だ。


「だって黒川君、あれじゃご褒美にならないと思ってるんでしょ? じゃあいいじゃん。黒川君が納得するまで、幾らでもご褒美貰っちゃうもん」


 ニコニコで言うと、白崎は俺の肩に顔を擦りつけ、くんくんと匂いを嗅ぐ。


「ん~。塩素の匂い。青春の香りだねぇ~」

「や、やめろって! 恥ずかしいだろ!」


 前の座席で隠れていると言っても、胸から上くらいは見えていそうだ。運転手さんがバックミラーを覗いたら見えるかもしれない。誰かが振り向いたり、乗客が来ても同じだ。そう思うと、俺は気が気じゃない。


 いや、この場に誰もいなくたって気が気じゃない。だって白崎だ。学校一の美少女は、体温までも美少女だ。優しい温かさで、ホッと心が安らぐ。白い素肌はすべすべで、俺の腕には胸の感触すら伝わっていた。そして俺の頭の中には、ずっと目の前にあった白崎のスク水姿が焼き付いている。右手には、お腹の感触だって残っているのだ。


 だめだ、だめだだめだだめだ!


 そんな、に対してエッチな気持ちになるなんていけない事だ!


 なのに俺は、どうしようもなくドキドキして、いけない気持ちになってしまう。


 だからやめて欲しい。本当に、お願いだから。


 さもないと俺は、本気でこいつを好きになってしまいそうだ。


「……すごいね。こうしてると、黒川君の心臓の音が聞こえてくる。すっごいドキドキしてる。私までドキドキしてきちゃった」

「――っ!?」


 ほんのり頬を赤くして、俺の腕に耳をくっつけた白崎がそんな事を言う。


 いけない気持ちを覗かれているような気がして、俺は反射的に逃げようとした。

 けれど白崎は両手でがっちり俺の腕に抱きついてはなしてくれない。


「だめ。逃がさない。ご褒美だもん」

「か、勘弁してくれ」


 眠っている一ノ瀬達が気になって仕方ない。

 今にも起きて、俺の事を責め出しそうな気がしてしまう。


「いーじゃん。私達、付き合ってるんだから」

「そ、それは白崎が勝手に言ってるだけで……」

「まだそんな事言うの? 私はこんなに黒川君に尽くしてるのに? 黒川君は私の事、好きじゃない?」


 好きじゃない。


 少し前の俺なら、何の迷いもなく言えたはずだ。


 今だって、言えない理由はなにもない。


 なにもない……はずなのに。


 なのに、俺は言えなかった。


 どう頑張っても、そんな言葉は言えそうにない。


 けれど、同じくらい逆の言葉も言えなかった。


 どちらとも、口が裂けても言えそうにない。


 空白が喉につっかえて、俺は窒息しそうになった。


 ……そんな俺を、白崎は愛おしそうに見つめている。


「なんてね。答えなくていいよ。黒川君が変な事言うから意地悪しただけ。その言葉は、もっとロマンチックな時まで取っておいて」


 悪戯っぽい笑みを向けられ、俺は魔方が解けたようにどっと息を吐く。

 けれどまだ、白崎は俺の腕に抱きついたままだ。


「ご褒美だったよ」


 俺の中に潜り込もうするように、肩にぐりぐり頬を押し付けて、ちょっと照れたように白崎は言う。


「それに、すっごく楽しかったよ。そりゃ、ウォータースライダーとか流れるプールとか、興味なかったって言ったら嘘になるけど」


 やっぱりなと俺は思った。

 だって、俺も乗ってみたかったから。


 泳げないから無理だけど、でも、もし泳げたら、乗ってみたかった。


 ジェットバスとか、打たせ湯の修行ごっこも羨ましかった。


 白崎だってそうだったに決まっている。


 ……なのに俺のせいで。


「もう! そんな顔しないの!」


 むくれた白崎が二の腕を抓る。

 少し痛い。でも、少しだけだ。


「でもそれは、黒川君と二人でって事。一人で遊んだって、そんなの全然楽しくないよ。それよりも、黒川君と一緒にいる方が楽しいの。頑張ってる姿を見て、応援して、成長を噛み締めて、沢山ありがとうって言って貰えて、私の為に怒ってくれたし、今日は最高のご褒美だったよ。黒川君は違った? 練習ばっかりで、楽しくなかった?」


 楽しい夢でも思い出すようにうっとりして、白崎は言う。


「……そりゃ、楽しかったけど」


 醜い嫌われ者の俺だ。泳げないし、プールなんか大嫌いだ。でもそれは、バカにされたりからかわれたりいじめられるからで、プール自体に興味がないわけじゃない。


 そんな事が許されるなら、のびのび泳いでみたいと思っていた。


 ……まぁ、泳げないんだけど。

 でも、白崎が手を引いてくれたし。周りの奴らに変な目で見られて、笑われる事もあったけど、白崎は気にしなかった。頑張ってる人を笑う方がよっぽど恥ずかしいと励ましてくれた。だから俺も、恥ずかしいけど平気だった。だから、なんだかんだ楽しめた。


 少ししか泳げるようにならなかったけど、本音を言えば、その少しが俺には少し誇らしかった。こんな俺でも、頑張れば出来るんだって思えたから。


「でしょ? 私も同じ。だからさ、落ち込んだりしないでよ。それじゃあ、折角の楽しい思い出が悲しくなっちゃうでしょ?」

「……ごめん」

「いいよ。いつもの事だから」

「……ごめん」

「謝らないでよ」

「……ありがと。練習、付き合ってくれて」

「うむ。それでよし」


 満足そうに白崎が頷く。

 流石に慣れたのだろう。

 白崎は鼻血を出さなかった。

 手の甲をギュッと抓って耐えてはいたが。


「……なぁ白崎」

「なに黒川きゅん」

「……今度はご褒美じゃなくて、普通に遊びに来てもいいか?」

「――ッ!?」


 白崎が鼻を押さえた。

 その先は、俺は恥ずかしくて俯いてしまった。


「……もうちょっと練習したら、ウォータースライダーに乗っても溺れないと思うから。もうちょっと泳げるようになったら、流れるプールで遊ぼうぜ。お返しにさ、西園寺みたいに浮き輪に乗せて押してやるから」


 白崎は楽しかったと言うけれど、教えてもらってばかりでは、やっぱり俺は心苦しい。


 だからせめて、それくらいのお返しはしてやりたかった。


「んー! んー! んー!」

「ん?」


 呻き声に顔を上げる。


 左手で鼻を押さえた白崎が、必死になって右の掌で鼻血を受け止めていた。



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