第37話 まずはお友達から

 こんな状態じゃ家になんか帰れない。

 内履きのまま学校を飛び出してしまったし、鞄だって部室に置いてきた。

 かといって、あいつらの所には戻れない。

 戻れるわけがない。


 俺は、俺自身理解出来ない謎の理由で癇癪を起し、あいつらの前でわけのわからない事をほざいて泣いてしまった。

 こんなのは、どう考えても笑い者だ。一発アウトだ。オシマイだ。


 きっと今頃、あいつらは俺の事を気持ち悪い奴だと笑っているだろう。

 それで、明日にはその事が学校中に広まって、俺は惨めないじめられっ子に逆戻りするのだ。枯井戸や安藤も俺に失望し、掌を返すに違いない。白崎は嘘告を終わりにして、今まで集めた俺の恥部を学校中にばら撒くのだろう。


 その事を思うと、俺は怖くて死にたくなった。

 それなのに、なぜか不思議と安堵もしていた。


 多分、そうなればこれ以上白崎の嘘告に怯える必要がなくなるからだろう。

 自分を偽るのはもう限界だった。


 俺は醜い嫌われ者だ。

 だけど、最初からそうだったわけじゃない。

 昔の俺は、どこにでもいるような普通の人間だった。

 少なくともこの心は、心だけは、そのつもりだった。


 ただ友達が欲しかった。

 一人でもいい。

 たった一人でいい。

 心を許せる友達。

 俺の話を聞いてくれる友達。

 俺の事を馬鹿にしない友達。

 みんなと同じように、友達とわいわい楽しく遊びたかった。


 それだけでよかった。

 ただそれだけが無理だった。

 だから俺は諦めたのだ。

 諦めなければならなかったのだ。

 そうしなければ、弱い俺の心は壊れてしまうから。

 だから頑張って、やっとの事で諦めたのに。


 愚かな俺は、愚かにもまた信じそうになっている。

 俺はただ、白崎の掌で踊らされているだけなのに。

 なのに俺は楽しんでしまった。


 屋上での昼休み、夜のゲーム、バカみたいなダブルデート、安藤の恋愛相談や西園寺の部室の掃除、そして今日みんなで一緒にやったドラハン。


 それらは俺が、ずっとずっとずっとずっとずっとずっと……本当は心の底から欲していた、かけがえのないなにかだった。


 こんな事は間違っているのに。

 こんな事が続くはずはないのに。

 それなのに俺は、求めそうになっている。

 欲張りそうになっている。

 勘違いしそうになっている。


 もしかしたら、そんな奇跡みたいな事もあるんじゃないかと。

 その事が、俺はなによりも怖かった。


 学校中の人間からいじめられるよりも、俺はそっちの方が怖かった。


 殴られるよりも、バカにされるよりも、脅されるよりも、唾を吐かれるよりも、財布のように扱われるよりも、その他のどんな事よりも。


 信じた相手にまた裏切られる事が怖かった。

 だから俺は、もう信じないと決めたのだ。


 これ以上あいつらと一緒にいたら、いずれ俺は、あいつらの事を本気で信じてしまうかもしれない。

 今ならまだ、傷は浅い。

 だから俺は安堵したのだ。

 ようやくこの、夢のように楽しかった悪夢が終わる。

 このままずるずると関係を続けて傷を広げるよりは、そっちの方がまだマシだ。

 ……それだって、少々手遅れだったのかもしれないが。


 行き場を失った俺がたどり着いたのは、学校の近くにある大きな児童公園だった。

 そこにある、使用禁止のロープが張り巡らされたヘンテコな遊具の中に隠れて、膝を抱えて泣いている。


 この街に越してくる前、いじめられていた俺はよく、こんな風に公園の遊具に隠れて泣いていた。泣いたまま家に帰ったら、母親を心配させてしまうから。


 こうしていると、あの頃に戻ったようだ。

 ……実際、俺はあの頃と何も変わってはいないのだろう。

 強くなったふりをしていても、本当の俺は臆病で怖がりなヘタレの弱虫だ。


 ある程度気持ちが落ち着くと、俺はぐすんと鼻を鳴らして溜息をついた。

 これからどうしよう。

 内履きはなんとかなる。後で戻って履き替えればいい。


 問題は鞄だ。超科学部の部室はオートロックだから、インターホンを押して西園寺に開けて貰わないと入れない。鞄がなかったら母親が心配する。どう言い訳をしたものか。

 とりあえず顔を上げると、白崎と目が合った。


「うわぁああああ!? ――いでぇ!?」


 驚いた拍子に思いきり天井に頭をぶつける。

 複雑な形をした遊具の基部の、小部屋みたいなスペースだ。

 白崎は壁に空いた入口用の丸い穴から堂々と覗いていた。

 なにか尊いものでも見るような、うっとりとした表情を浮かべている。


「な、なんでお前がいるんだよ!?」


 意味が分からない。俺がここに来たのはたまたまで、来たのだって初めてだ。どう頑張っても白崎に見つけられるはずがない。

 やっぱりこいつ、エスパーだろ!?


「そうだよ。黒川きゅんの考える事なら、私はなんでも分かっちゃうの」


 悪戯っぽく口元に人差し指を触れさせながら、白崎が狭い小部屋に入ってきた。

 やっぱりこの女は魔女なんだ。超能力者で、スキル持ちなんだ。異世界帰りのチート女だ。そう思って唖然としていると、白崎がくすりと笑う。


「なわけないでしょ。一緒に出て来て、そのままずっと追いかけてたの。気づかなかった?」


 白崎が足元に視線を向ける。紺色のソックスを履いた白い脚の先は、俺と同じで内履きだった。


「……なんでだよ」

「言ったでしょ? どこまでも追いかけるって」


 言っただろうか? 頭がどうにかなっていて、あの時の記憶は曖昧だ。

 なんだっていいが。


「……そこまでして、俺の事を笑い者にしたいのかよ」

「そうだよ」


 白崎が携帯を掲げる。

 そこには、俺が無様に泣いている動画が流れていた。


 ……ほらな。

 ……やっぱりだ。


「冗談だよ。これは私の個人的な楽しみの為に撮ったの」


 なにかを確認するようにじっと俺の目を見つめると、白崎はニッコリ笑って携帯をしまった。


「そんなもん、信じられるか! どうせお前は――」

「私は絶対に黒川君の事を裏切りません!」


 俺の目を真っすぐ見て、その奥の脳ミソまで見透かすように、白崎は言う。


「黒川君になにがあったのか知らないけど、なにかがあったんだって事は分かる。どんな事なのかも、なんとなく想像は出来るよ。でも聞かない。それは黒川君が話したくなった時に話してくれればいいから。とにかく私は、黒川君の事を裏切らない。アンちゃんだってそう。私達、とっくに友達なんだよ? それで彼女。まぁ、本当の彼女は私だけだけど」

「やめろ……やめろ!」


 呪文のように染み込もうとする白崎の言葉に、俺は耳を塞いだ。


「やめません。だってここが正念場だもん! さぁ黒川君、私の目を見て。これが嘘つきの目に見える? 私は黒川君を裏切らない、裏切らない、ウラギラナ~イ」

「やめろって言ってるだろ!?」

「――ぴぃっ!?」


 振り回した手が白崎の顔に当たった。

 その瞬間、俺の心臓は凍り付いた。

 驚いた白崎が口元に手を触れる。

 唇が切れたのか、白い指先が僅かに赤く濡れていた。

 俺は死んだ方がいい。


「ぁ、ぁ、ぁぁ……ごめん白崎! 俺っ……」

「黒川君、歯を食いしばって」


 白崎のパンチが顔面に突き刺さった。


「いったぁ~! こっちの手が折れちゃいそう!」


 白崎が痛そうに拳を振る。

 本気で殴ったのか、そこそこの衝撃があった。

 それどころではなかったので、痛みは全く感じなかったが。


「ともかく、これでおあいこ。いいね?」


 白崎はニッコリ笑って俺の鼻を指で弾いた。

 それで俺はキレてしまった。


「う、う、うぁ、ぁぐぅ……」


 歯を食いしばって必死に耐える。

 けれど、ダメだ。

 喉の奥から嗚咽が込み上げ、目からはボロボロと涙が零れてしまう。


「はわわわ……黒川きゅん、可愛すぎぃ!」


 そんな俺を見て、白崎はテンションマックスで写真を撮りまくる。


「うぇ、えぐ、あぐ、やめ、やめろって!」

「やめません! だってこんなに可愛いんだもん! 黒川君に遠慮して我慢してたけど、こんなの無理! 保存しなきゃ一生後悔するよ! だから撮るの! 大丈夫、いつか絶対いい思い出になるから!」

「嘘だ! お前は、俺を騙して、その気にさせて、裏切る気なんだ!」

「もしそうなったら私の事殺していいよ」


 カシャカシャと写真を撮りながら、平然と白崎は言う。


「いや、それだと黒川きゅんが殺人犯になっちゃうから、自分で死んだ方がいいのかにゃ?」

「……ば、バカな事いうんじゃねぇよ!」


 呆気に取られて俺は言う。

 俺なんかの為に死ぬなんて、そんなのは絶対にダメだ。


「そんな悲しそうな顔しないでよ。私は黒川君の事を裏切らないから、そんな事には絶対にならないよ」


 白崎が俺に微笑む。


「嘘だ」

「嘘じゃないよ」

「嘘だ!」

「嘘じゃないデース」

「嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、……お前みたいな奴が俺みたいな最低男を好きになるなんて、そんな夢みたいな話、信じられるか!」

「うん。だから、信じなくていいよ」


 白崎が笑いかける。愛おしいものを見るように、ただひたすらに優しく。


「黒川君はそのままでいいよ。私が黒川君を好きになったんだもん。だから、信じさせるのは私の仕事。絶対に振り向かせるから、覚悟してね」

「無理だ……」

「無理じゃないよ。だって私は学校一の美少女だもん!」


 お道化る白崎に、俺は力なく頭を振る。


「無理なんだよ! 俺は醜い嫌われ者だ! ずっとそういう扱いを受けてきたんだ! やっとの思いで諦めたんだ! 今更優しくされたって信じられない……。信じたくても、出来ないんだよ……」


 最初は俺も意地になっているだけかと思った。

 だけど違った。

 白崎達が俺に優しくするほど。

 白崎達との日々が楽しい程。

 俺の心はミシミシと軋んで悲鳴をあげる。

 俺の心はもはや修復不能なほどに壊れて歪んでしまったのだ。


 どれだけ白崎が優しくしても、むしろ優しければ優しい程、俺の心は疑念を抱き、恐怖してしまう。


「そんな事、やってみなくちゃわかんないじゃん! 私達まだ高校生なんだよ? 黒川君が今までずっと嫌われ者だったって言うんなら、私はこの先一生黒川君を愛してあげる。それで、私のラブで黒川君の嫌な思い出を全部上書きしちゃうの。そして私達はラブラブになって末永く幸せにくらしましたとさ、めでたしめでたし、ってするの!」

「……それで無理だったらどうする? 俺みたいなゴミの為に、お前の人生を棒に振るのか? 学校一の美少女で、人気者で面白くて、なんだって出来るお前が。彼氏だって選び放題で、もっと幸せになれる相手がいくらでもいるはずのお前が、俺なんかと付き合って不幸になるのはおかしいだろうが!」


 そんな事は許されない。

 そんな事は耐えられない。

 仮に白崎の気持ちが本物だったとしても。

 俺みたいな醜い嫌われ者は、白崎には相応しくない。


「私の幸せを勝手に黒川君が決めないで! 黒川君と付き合ってから、私はずっと幸せだもん!」

「そんなわけあるか。俺は醜い嫌われ者だ。お前がどれだけ俺に優しくしても、俺は意地悪でしか返せない。俺はそういう奴だ。そういう風に自分を変えちまったんだ。一緒にいて、楽しいわけないだろうが!」

「そういう捻くれた所が好き。意地悪した後、ちょっと後悔した感じになる所も好き。ていうか自分で思ってる程別に意地悪でもない所も好き。私に優しくされて怯えちゃう所とか、たかがゲームで本気になって泣いちゃう所も好き。今日の事で、黒川君の事がますます好きになっちゃった。そんな黒川君と一緒にいられて、私は幸せだし楽しいよ!」

「だとしたら、お前は頭がどうかしてる」

「そうだよ? 知らなかった?」


 からかうように白崎が笑いかける。


「学校一の美少女だからってお行儀のいい常識人だって決めつけないで。私は変人なの。だから黒川君の事を好きになったの。私にブスって言った時の黒川君の怯えるような目、今でも覚えてる。こんな奴、絶対に好きになりたくない。好きになっちゃいけないんだって、そういう目をしてた。私、ゾクゾクしちゃった。そんな黒川君を彼氏に出来たら、きっと最高に気持ちいいだろうなって」

「……最低だ。やっぱりお前、俺の心を弄ぶつもりだろ」

「ある意味ではそうかも。それでも私は、黒川君を裏切らないよ?」


 平然と白崎は言う。

 その言葉が嘘でない事は、俺も薄々理解していた。

 本気で俺を嵌めるつもりなら、タイミングは幾らでもあった。


 けれど心が受け入れられない。

 どうしても無理なのだ。

 俺は人を信じる事が出来ない。

 信じて裏切られるのが怖いのだ。

 そんな俺が、どうして白崎の好意を受け入れられる?

 ささやかな友情にすら拒絶反応を起こした俺が、愛情など信じられるわけがない。


 なにも言えずにいる俺に、白崎が優しく笑いかける。


「焦らなくても大丈夫だよ。時間は沢山あるんだから。楽しみながら、ゆっくり解決していこう。とりあえず、まずはお友達から。私は彼女だけど、黒川君はそこからで。それでも、今までよりは一歩前進。でしょ?」

「……勝手にしろ。なにを言っても、どうせ聞きやしないだろ」


 それが今の俺に出来る、精一杯の返事だった。

 それよりも、今の俺には言わなければいけないことがある。


「…………白崎。さっきは殴って、ごめんなさい」

「…………ッ!?!?!?!?!?!?!?」


 白崎が鼻血を噴いて倒れた。


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