第82話 大渓谷に心惹かれる



 空中遊泳の興奮から早数日。


 俺はまだこのサティアの街にいた。もちろん空間魔法を難なく習得できているので、もはや滞在する必要などない。いや、だからなのかもしれない。


 今回の旅の目標は完全に達成された。

 わざわざ急いでサンローゼに戻らなくてもいいだろう。


 そんな気持ちで滞在期間がずるずると延びていた。

 また、疲労回復の効果を狙ってのことだった。


 実はここサティアだが、思いのほか居心地がよいのだ。

 とにかく景観がすばらしい。

 何しろ大自然の真ん中に位置する街だ。


 そして、そんな自然の豊かさに反して、強い魔物はほとんど出没しないらしい。

 そんな安心感も手伝って、山あいの絶景スポットを探しては、露天風呂に入ることを繰り返す。気が付けば、俺はたいそうこの街が気に入っていた。


 もちろん活動拠点はサンローゼから移すつもりはないが、もうしばらくゆっくりするとしよう。


 さて、そろそろ『散策』をするか……。


 ここで言う散策とは、サティアの街中や風呂の適地を探すことではない。

 一言で言えば、空中遊泳で見てしまった【大渓谷】。

 とにかくそれが気になっている。


 近くで見てみたい。

 俺の好奇心がそうささやいてくる。


 調べてみたところ、サティアから大渓谷までは小さい道が何本かあることが判明した。だが、短い道とはいえ気軽に行くような場所ではなさそうだ。入念に準備をして、翌日、大渓谷を見学することに……。


 目を付けていた道を奥へ奥へと進む。すると、ある程度行ったところで渓谷に向かう細い道は途切れ、目の前には大草原が広がっていた。


 すばらしい。

 辺り一面に広がる緑の平原が網膜に刻まれる。


 はやる気持ちを押さえつつ、気分上々で大渓谷へと歩みを進めていく。


 あともう少し。

 すぐそこだ。


 ついに崖っぷちに到達した。

「あぁ。これはすごい!」


 月並みの感想だが、あまりのすごさに語彙が出てこない。


 深い。

 とにかく深い渓谷だ。


 そして、広い。かなりの幅がある。

 対岸のサティアまで、もしかすると数百メートルはあるかもしれない。


 だが同時に、どうしても気になるものも目に入ってくる。そう、対岸に見える万里の長城のような巨大な石造りの壁だ。これを管理しているサティアの連中がどこかしらで監視をしている可能性も高そうだ。


 さて、本来ならばここで俺の “ミッション” は完了。あとは来たばかりの道を引き返すのみ……。


 なのだが、せっかくここまで来たのだから、ついでに大渓谷の『底』を拝みたい。


 もちろん、それなりに危険があるのは承知のうえだ。

 しかし好奇心には抗えない。


 こそこそと崖の岩場の影に隠れるようにして準備をする。

 といっても、ロープなどは使わない。

 というより、そんな小道具で降りられるほど甘い場所ではない。


 空間魔法で板を作り、その上に乗るだけだ。


 いざ渓谷の底の底に降りてみると、予想は裏切られた。

 実は上からでは底の様子はよく分からなかった。

 だが、おそらく川が流れているものだと勝手に想像していたのだ。


 それがどうだ。

 そもそも川がない。

 水がまったく見られない。


 へぇ~。

 これは不思議だ。


 何しろ、俺が風呂に使った渓流もここに流れ込んでいるはずなのだが……。


 だが、よくよく耳をすませると水の音が聞こえてくる。


 ははぁ。

 もしかすると、これは地下に水の流れがあるのかもしれないな。


 周囲も独特な景観だ。


 ひたすら平らな土地が広がっている。

 地面には無数の石や岩が転がり、とにかく無機質だ。

 仮にどこかの惑星に着陸したとすれば、もしかするとこんな感じなのかもしれない。


 薄暗いせいか植物は何も生えていない。

 これまでの人生で見たことのない、不思議な空間がそこに広がっていた。


 単純な思いつきで下まで降りてきただけだが、誰も知らない隠れた絶景スポットを見つけたような気分で心地がよい。


 しかし、この『下見』が後に重要な意味を持つことになろうとは、まだ想像だにしていなかった。











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