目標

「有難うございました。また遊びに来てね」

「最高だったよ。次も指名するから」

 客を受付のフロアへと降りる階段まで見送る。去り際に他の客がいないのを確認してキスをする。個室内でのプレイと違って興奮するのか客は様々な表情を見せる。

 最高だと褒められて全く嬉しくない職業は他にもあるのだろうか? 度々耳にするそのセリフは私を通り抜けるだけだった。


 何だかんだで五年程この業界にいる。今いる店は所謂マットヘルス。何がヘルスなのか不明だが、世間的には私はヘルス嬢になる。

 別にやくざな男に惚れて風俗に沈められた訳ではない。借金の返済の為でもない。ましてホストに貢ぐなどあろう筈もない。

 私は生き抜くためにこの道を選んだのだ。






 物心ついた頃から両親の喧嘩が絶えなかった。私の前でも平然と罵りあう二人。その怒りが私に向けられるのではと慄く毎日だった。

 幸い父は私に暴力を振るわなかった。だが愛されていた自覚もない。無関心という言葉が適切だろう。

 母は私にきつくあたった。嬉しくてはしゃいでも恐怖で泣き出しても次に待っているのは罵声と平手打ち。そんな日々の繰り返しだから自ずと感情を抑える術を身に付けた。

 両親が離婚したのは小学二年生の時だ。離婚を理解してはいなかったが、毎日繰り返される喧嘩から解放されるのだと安堵した。

 そして母の実家近くのアパートで新しい生活が始まった。


 離婚して以降、母は家事を殆どしなくなった。今思えば夜働くようになったのが原因なのだろう。食事を作るのは休みの日ぐらい。それも毎回とは限らない。つまり月に二、三回だ。

 学校から帰るとテーブルの上に百円玉が三枚。それで菓子パンやおにぎり、カップ麺を買って食べた。おふくろの味、家庭の味と言われてもピンと来ないのはこのせいだろう。


 平穏な日々に変化が訪れたのは小学五年生の時だ。家に知らない男が頻繁に出入りするようになった。痩せて目つきの鋭い男はパッとしない外見だったが、母の恋人だと直ぐに理解した。

 平日の昼でも家にいるかと思えば十日以上姿を見せない時もある不思議な男は、私には一切無関心のようだった。

 だがその仮面はあっさりと剥がれる。

 同棲を始めたことで酒癖の悪さが露見したのだ。酔うと目つきが気に入らないだの躾がなっていないだのと暴力を振るう。父から暴力は受けていなかった私は激しく動揺した。

 目立たぬよう大人しくしているのに態々絡んできて暴力を振るう。息を潜めていれば不幸は訪れないという私の処世術が通用しない初めての相手だった。


 銀行にお金を預ける概念を知ったのはこの頃だ。

 それは私にとって一縷の望みとなった。お金を貯めて一人で生活出来るようになれば家を出る。母親に対して愛情より憎悪の方が勝っていた私に迷いはなかった。

 近所に住む祖母にそれとなく頼んで初めて通帳を手にした時の感動は今でも忘れられない。これで家を出られる。この通帳は自由への切符だと感じた。

 それからは小遣いは勿論、夕食代も浮かせてとにかくお金を貯めることに執心した。金額は微々たるものだが、子供の感覚では着実に自由へ近づいていると喜んだ。


 年月は過ぎ、中学三年生になった。

 例の男は一年程で我が家に姿を見せなくなったが、その後も色々な男が出入りした。だがどの男も漏れなくクズばかり。中には体に触れようとする者までいたが、反抗期真っ盛りの私は出来る限りの悪態をついて抵抗した。

 そしてやはり暴力を振るう男が多かった。男という生き物への呆れに加え、母への憎悪がどんどん膨らんでいった。


 そんな時に事件は起こった。母が新しい男と共に姿を消したのだ。これまでも数日帰ってこない時はあったが、今回は祖母に連絡が入ったらしい。

 予期せぬ事態に動揺したが、その一方でこの状況を前向きに捉える自分がいた。

 高校に入学したらアルバイトでお金を貯め、卒業と同時に家を出るつもりだった。そして出来ることなら生涯母と顔を合わさずに過ごしたいとさえ思っていた。

 ちょっと早く希望どおりになっただけ。これこそ私が望んでいた自由だ。そう自分に言い聞かせた。

 

 家賃と光熱費は母が払い続けていたが、生活費などは一切送ってこなかった。祖母が助けてくれたが、年金暮らしのため卒業以降は援助できないと暗に言われた。

 私は卒業と同時にバイトをしてひたすらお金を稼ぐ道を選択した。


 そんな日々を過ごしていた十七歳のある日、私は路上に設置された女性向け求人誌を手に取った。夜のお店ばかりが掲載された小冊子。その金額に驚愕し、自分の時給が馬鹿らしく感じた。

 この頃には一人でアパートを借りて生活するのにどれくらいお金が必要なのか理解していた。コンビニやファミレスを掛け持ちしたところで大した金額にはならない。就職するには学歴という壁が存在する。私が生きる道は夜の世界しかないのだと強く印象付けられた。


 バイト仲間の知恵で年齢を詐称しガールズバーから始めた。

 仕事の中身は大したことはない。お酒を作りニコニコ笑って適当に話を合わせるだけ。対して収入は飛躍的に上がり、口座の残高はみるみる増えていった。

 これまで贅沢だと避けていた流行りのスイーツも食べられる。祖母にお土産も買って帰れる。人生で初めての人間らしい暮らし。私はこの生活を手放さないと誓った。


 そしていつの間にか風俗嬢に転身していた。何故そうなったのか自分でも良く分からない。だが後悔は全くなかった。生き抜くことが私の全てなのだ。


 ◇◇◇


 仕事を終えて家路につく。

 週五日の勤務。サラリーマンのように一定のリズムで繰り返される日常。全く別世界なのにねと自嘲気味に笑う。

 笑ってスイッチが切り替わり空腹に気づく。帰って夜食を作ってもいいのだが、無性にあそこのうどんが食べたくなった。

 踵を返してうどん屋へ向かう。今日は天ぷらも頼んじゃおうかな? などと考えると自然と頬が緩んだ。


「いらっしゃい」

 女将さんの朗らかな声が出迎えてくれる。それだけで心地良い。

「こんばんは」

 軽く会釈してカウンターに座ろうとしたところ、テーブル席から声がかかった。

「不~二子ちゃん」

 アニメの物まねで名を呼ぶのは、ソープランドの店長をしているタケモトさんだ。派手なアロハ姿でうどんを食べている。

「一緒に食べようや」

 テーブルには若い男の子もいる。

「ご一緒してもいいのかしら?」

「どうぞ、どうぞ。こいつはうちボーイでマサ言いまんねん。仲ようしたってな」

「仲良くって」

 相変わらずノリが軽い。だが嫌な感じはしない。不思議な人だ。

「不二子ちゃんもうちの店おいでえや。みんなええ奴っちゃで」

「店長、引き抜きはご法度ですよ」

「アホ、新開地流の挨拶じゃ」

 タケモトさんは屈託なく笑う。


「みんな楽しそうね。不二子ちゃん何にする?」

 女将さんが注文を取りに来た。今日の日替わり天ぷらは何かしら? 私はホワイトボードを確認した。

 キスの天ぷらという文字が飛び込んで来る。ここに通い始めて半年ほどだが、キスの天ぷらは初めてだ。まだ残っているなら是非食べたい。

「キスはまだありますか?」

「運が良いわね。最後の一つよ」

「じゃあ、キスの天ぷらとかけうどんをお願いします」

 ここの天ぷらは美味しい。しかも日替わりは旬の素材が中心だ。

 旬のキスの天ぷら。以前なら食事は命を繋ぐだけの行為だった。だが最近は食事に楽しみを見出せるようになっていた。


「これ、良かったらどうぞ」

 けんさんが小鉢をサービスしてくれる。中には美しい魚の切り身が入っていた。

「これ何だろう?」

「きずしや。トヨさんがええサゴシを見つけて、けんさんがきずしにしたらしいで」

 タケモトさんが説明してくれる。食べ物に詳しいみたいだ。

「きずしって何ですか?」

「しめサバのサゴシ版やな。サゴシはサワラの幼魚。出世魚で小さいのからサゴシ、ヤナギ、サワラって変わっていくんや」

「へえ、大きくなる度に名前が変わる魚がいるのね。知らなかったわ」

「ホンマかいな。ハマチとブリとかコハダとコノシロとか知らんか?」

「ハマチとブリって同じ魚なの?」

 まさか知らないのは私だけ? これって常識なの?

「ねえ、あなたは知ってた?」

「ハマチとブリは知ってたけど、サゴシとかコノシロとかは聞いたこともないです」

「あちゃ~。学校は何しとんねん。世界に轟く和食文化をしっかり教えんかい」

 タケモトさんが大袈裟に嘆く。マサ君も知らなくて安心したわ。

「まあ、ええわ。不二子ちゃん先ずは味わってみいな」


 そうだ、折角のご厚意だし頂きましょう。

 それにしても綺麗だわ。皮に光沢があって身は酢の影響かほんのり白くなっている。それでは。

 うん、お酢の具合が最高。ほんのり甘いすし酢のような味。酸味は強くないのに爽やかだわ。お酢の効果で魚特有の臭みもないし。

 そして生魚とは思えない口当たりの滑らかさと程よい脂。脂ののったしめサバとはまた違う上品な美味しさだわ。これがきずしなのね。


「どや、美味いやろ。きずしと言えばサゴシやけどサワラで作っても美味いで。味が濃厚になるからな」

「確かにハマチとブリじゃ旨味と脂の乗りが違うものね」

「おっ知識はなくても味覚はバッチリやないか。食道楽の素質あるで」

 食道楽ってレディにその表現はないんじゃないw

「不二子ちゃんは二十四やったか」

「二十三です」

「おお、すまんすまん。社会一般で言うたら大卒と一緒か。丁度ツバスからハマチになったくらいやな」

「一人前になったってことかしら」

 世間的にも就職して自活する歳だもんね。

「いや、まだまだ。スタートラインに立っただけやな」

「先々楽しみがあるってこと?」

「その通りや、マサも不二子ちゃんも楽しみだらけや」

 私は生き抜くこと以外に価値を見出せないけど。


「はい、お待たせ。かけにキスの天ぷらね。お塩がおススメだけど自由に食べて」

 やった。キスの天ぷらだ。きずしがまだあるけど先に天ぷらを食べよう。揚げたて熱々が一番だもんね。では、おススメ通り塩で。

 うーん。美味しい。身が柔らかくてふわふわだから、衣のサクサク感が際立つわ。そしてもっと淡白かと思いきや口の中に旨味がどんどん広がっていく。キスの天ぷらってこんなに美味しいのね。やっぱり旬だからかな?


「わいもマサも食べたけどこれは絶品やな。そうそうお目に掛かれへんで」

「同感っす。人生で三本の指に入りますわ」

「そうなの?」

 私があれこれ食べ始めたのはここ二、三年くらいだ。けれどタケモトさんは食通みたいだし、美味しいものを一杯食べてきただろう。その人が言うのだから凄い天ぷらなのね。美味しいはずだわ。


「ちょっと二人とも大袈裟よ。嬉しいけどね」

「女将はん。わいは世辞なんて言わへんで。これは絶品や」

「いいキスだったからね。見た瞬間これだって思ったもの」

「やっぱり旬だからですか?」

 食べ物に詳しくはないけどどうしても聞いてみたくなった。

「あら、キスの旬を知っているの? 冬のキスもいいけど、この時期のキスは産卵に備えて沢山食べるの。だから身が濃厚なのよ」

へえ、そうなんだ。

「大いなる未来に向けて積み重ねる日々がキスをこんなにも美味しくしてくれる。生命の営みって素晴らしいわよね」

「大いなる未来?」

「そう、大いなる未来。まあ魚はそんなこと考えてないだろうけどね。必死に日々を生き抜いているだけ。でもそこ潜り抜けた者だけが産卵という未来を掴めるの」

「必死に日々を生き抜く」

 私と全く同じだわ。生きることそのものが私の全て。でもキスには、いえ全ての野生の生き物には命を繋ぐという大いなる未来がある。私には未来なんて……。


「あら、きずし苦手だった?」

「いえ、とっても美味しいです。天ぷらを熱々で頂きたかったので」

「そうだわ、ちょっと待ってて」

 女将さんは厨房に下がり、小鉢とスプレー缶の様なものを持って来た。

「皮を炙るとまた美味しいのよ」

 そう言って女将さんは目の前できずしをバーナーで炙ってくれた。

「みんな食べ比べてみて」

「こら美味そうや。日本酒が欲しいな」

 タケモトさんが一番乗りで箸を伸ばす。じゃあ私も。

「えっ」

 嘘でしょ。さっきと全然違うわ。炙って香ばしさが加わっただけでなく味が濃厚になった。なんで?

「うん、美味い。皮と身の間の脂が溶けてグッと濃厚になったわ」

「皮と身の間の脂?」

「せやで。魚は皮の周りが一等美味い。若い子らは皮を残すけど勿体ない話やで」

「マジすか? 俺も残してました」

「お前はつくづく本物ほんまもんを知らん男や」

 タケモトさんに言われてマサ君が苦笑いしている。

「凄いでしょ。ちょっとしたことでこんなに変わるのよ。これが料理の面白さね」

 ちょっとしたことで。

 私も変われる? 未来を掴めるの?


「不二子ちゃんは熱心に働いてるけど、将来の夢は有るんけ? お店出すとか」

 タケモトさんがにこやかに話す。

 将来。夢。子供の頃から一度も考えずにここまで来た。でも今なら。

「まだ何にも予定はないんですけど、夜間高校に通ってみたいかな」

「ええがな。今は夜間だけやなくて通信の高校も充実してんで。ちなみに俺も夜間やねん。中退やけど」

 タケモトさんは豪快に笑った。


小学生の私には通帳が自由への切符だった。

今の私には学びが未来への切符だと思う。

人生で最初の目標は生き抜くことだった。

今の目標は未来を掴むことだ。

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