43. 許し
フローラの独白は続く。
「かつての私はなんと愚かだったのでしょう。しかし、今なら当時のエマの言葉がわかるような気がします。快楽には優劣が存在します。他者を傷つけて得た快楽は低俗で、他人を喜ばせて得た快楽は高尚です。そして高尚な快楽が最も人を豊かにさせます。エマはこの中の誰よりも豊かに生きていると言えるでしょう。もちろん、私なんかよりもよっぽど」
エマは涙を流した。
フローラの言ったことはエマの中で真実であった。
彼女はフローラという最愛の主人に仕えることで、人生の喜びを感じていた。
同時に、エマはフローラが自分を卑下しているように感じ、心配になった。
――今のフローラ様はいつもとどこが違う。儚げでどこかに消えてしまいそう。
「セリーヌ様は私を傷つけて罵倒して満足しましたか?」
「それは……」
セリーヌの中には罪悪感があった。
やれなければ良かった。
やめておけば良かった。
フローラの言う通り、セリーヌはその場限りの充足感と引き換えに罪悪感を引きずっていた。
「満足な豚になるくらいなら不満足な人間になってください。私は一度死にました。いえ、もう死んでおります。そして生き返りました」
フローラの言っていることを、この場で理解できた者はいない。
だが、
――お前はフローラなんだな。オレの記憶が蘇る前のフローラなんだな。
かつてフローラは死んだ。
そして
しかし、
「一時の快楽を味わうための暴食を辞め、醜い豚から卒業しました。そして健康的な体を手に入れ、人間になったのです。セリーヌ様にお尋ねします。人を傷つけたときと刺繍を完成させたときとでは、どちらに満足を覚えましたか?」
フローラの吸い込まれるような碧い瞳が理知的に輝く。
セリーヌは静かに涙を流す。
彼女はフローラの瞳から、幼い頃のフローラの面影を見つけた。
言葉が溢れ出す。
「私は……刺繍が好きです」
「はい。知っていますよ」
「フローラ様が好きです」
「ありがとうございます」
「ごめんなさい。ごめんなさい。本当は……あんなことしたくなかった」
後悔。
それがセリーヌの抱く感情だ。
フローラを傷つけるべきではなかった。
友達を傷つけて良い理由なんてはないのだから。
「私は……あなたと昔のように仲良くしたかった」
セリーヌはフローラを罵倒しながら、実のところ誰よりもフローラのことを尊敬していた。
臆病なセリーヌは、自信満々なフローラに憧れていた。
そして、そんなフローラと友達でいられることを嬉しく思っていた。
しかし、フローラは第一王子の誕生日会を日切に、セリーヌとの縁を断った。
セリーヌは絶望した。
唯一の友達を失い、自分の居場所がなくなったように感じた。
――違う。
セリーヌは首を振った。
離れていったのはセリーヌの方だった。
馬鹿にされているフローラを見て、自分も一緒にいると馬鹿にされると思って、セリーヌのほうから縁を切った。
そして、フローラを馬鹿にすることで自分を守ってきた。
最も醜かったのはセリーヌの心だった。
「ごめんなさい」
謝罪の言葉を口にするセリーヌ。
「セリーヌ様、謝罪はもう受け取りました。他のモノを私にくださりませんか?」
「他のモノ?」
「刺繍をあしらったハンカチを私のために作ってください。セリーヌ様の渾身の一作を。それで私はあなたのことを許しましょう」
「そんなもので良いのですか?」
「はい。だって私達は昔からの友達でしょう? あなたは私の唯一の友達よ。セリーヌちゃん」
昔の呼ばれ方をして、セリーヌの心が大きく揺れ動いた。
もはや、セリーヌにフローラを恨む気持ちは残っていなかった。
その代わりに、フローラになんとしてでも償いたいという気持ちがあった。
「必ず。最高の一品を作ってみせます」
フローラは柔らかな笑顔を見せた。
霧が晴れたようなスッキリとした笑顔だ。
これでやり残したことはない、という死ぬ前の者の笑顔だ。
その表情を見ていたエマは、息苦しさを覚えた。
――フローラ様がどこに行ってしまう。そんなわけないけど……。でもこの不安は何?
「フローラ様?」
エマが口を開いた。
フローラがエマを見る。
「これからも私をよろしくお願いしますね」
「……はい。もちろんです」
フローラは満足そうに頷いた。
その直後、バタンとフローラが倒れた。
◇ ◇ ◇
かの名著『フローラの自由論』の一節にはこんな有名な言葉がある。
『満足な豚よりも不満足な人間。満足な愚者よりも不満足なフローラ』
人を傷つけて得られる満足はなんと貧しいものか。
人を喜ばせて得られる満足はなんと豊かなものか
私達は不満足な豚であるよりも、満足な人であり続ける必要がある。
昔の私は即物的な快楽を求め、豚のように食料を貪っていた。
昔の私は傲慢で人を見下し、一時の優越感に浸っていた。
だが、それによって得られる快楽は虚しいものだと気づいた。
そして、人を幸せにしたときの快楽は豊かなものであることに気づいた。
快楽には低俗なものと高尚なものがある。
豊かな充足をもって生きていくために、高尚な快楽を求めて生きたい。
フローラ・メイ・フォーブズが語ったとされる内容だ。
人を傷つけて得た満足よりも、人を喜ばせて得る満足のほうが人を豊かにさせる。
これは『フローラの自由論』の中でも根本となる大事な考え方である。
従来の幸福についての考え方は、快楽や苦痛の形に優劣はないというものであった。
それに対し、快楽や苦痛に質的な優劣を付けたのだ。
余談だが『フローラの自由論』はフローラの著書ではない。
フローラに影響され、フローラを崇拝していた者が作品の一つとして纏めた書物である。
この書物のおかげで、フローラ・メイ・フォーブズが後世に名を残す偉人として語られるようになった。
著者はフローラの最も近くにいた人物だと言われている。
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