第三話
「本気ですか」
客を前にして、思わず荒い響きになった。なんとか敬語になっていたのは、日頃の成果か何かだろう。心情的には、なんてった? と言いたいくらいのものだった。
「はい」
渡會は眉尻こそ下げていたが、退くことなく深く頷く。幻聴であってほしかった。
この人は、つい今しがた、歓楽街へ連れて行ってほしいとのたまったのだ。
時刻はおよそ二十一時。異世界では十分遅い時間だ。食事も終え、キャンピングカーに戻るかという段になって、リクエストがもたらされた。
「雰囲気が見たいだけなんですけど……問題ありますか?」
「一応言っておきますけど、危険ですよ」
「百も承知ですよ」
異世界に来る時点で、腹を括っているのだろう。作家という生命体を案内したことは過去幾度かあるが、大抵の場合その熱量を横道に逸らすことはできない。
流石にダンジョンに潜りたいと言われたときは、お供を断った。その人はこちらで冒険者を雇い入れて、見事にダンジョンを冒険したそうだ。そのバイタリティを知っているからこそ、渡會がふざけていないことは分かる。
しかし、歓楽街。
向こうとこっちでは、そのアングラ感が度を超して違う。何しろ、こっちでは媚薬に蠱惑魔法。サキュバスやインキュバスもいる。淫蕩に事欠かない。歓楽街は、そんな気もない女が歩いていい環境とは言い難かった。日本に慣れていればなおのことだ。
「見るだけなら平気じゃろ」
「あたしたちも行く。ぞろぞろしてれば問題ない。ブラックと丞班で侍らせていることにすればいい。あたしとピュイ先輩はブラックと歩くから、エミリーは丞班と」
「私も行くんですか!?」
「なんで置いていくと思ってんだよ」
「……だって、昨日の今日だし」
ぱこんと思わず手が出た。ラブホ街ではあったが、なんだその意味深な言いざまは。半眼を向けると、エミリーは口を噤んだ。
「全員でお供します。絶対に離れないようにしてください。見るだけです」
重ね重ね、念を押す。渡會は生真面目に頷いた。その一心不乱さが、逆に不安であるのだが。
ブラックたちを前にして、真ん中に渡會。俺とエミリーで最後尾を預かって、歓楽街へ出向いた。
こちらには電飾なんてない。歓楽街と言っても、眠らない街といった雰囲気はなかった。あちこちで、ぽつぽつと魔法の光や外灯が点っているだけだ。暗闇に心許ない光だけを頼りに歩く。
やはり、アングラ感が強い。
先頭をブラックにしたのは正解だっただろう。俺たちよりも夜目が利くし、鼻もいい。きな臭い区画は避けてくれるはずだ。
一本脇道に逸れただけで危険なのが、こっちの歓楽街だった。一度、こちらの風俗を体験したいという青年たちと来たことがある。そのときは、サキュバスに凭れかかられて、四苦八苦した。
ここには、身体を求めるものが集まっている。慣れていないものを連れてくるのは緊張した。
キクの心配はしていない。この魔法使いは人生経験が豊富だ。ブラックについては不安要素もあるが、キクがついているのだから問題ないだろう。ピュイに関しては、心配するだけ無駄だ。ひ弱ではあるかもしれないが、扱いづらい気の強さを武器に生き抜くだろう。
渡會は、危なっかしかった。しかし、異世界人にとって不測の機械であるスマホで辺りを撮影し、メモを取る傾注っぷりは声をかけづらかろう。未知の生命体に見えているかもしれない。
正直、日本でも歓楽街でこれをやっていたら遠巻きにされそうだ。実際、今もすれ違うのは不審な目のほうが多い。自分の興味に夢中な姿は堂々としているため、ある意味では慣れているようにも見える。その点では、安心できた。
そういう意味で言えば、一番危ういのはエミリーだ。
様子が気になるのだろうが、そのせいで不慣れさが表立っている。渡會に比べれば控えめな視線の動きは弱気に見えて、恰好の的だ。
俺なら、間違いなくエミリーを引っかける。パーカーの上からだって、豊満な身体つきなのが分かるのだ。いい鴨が来たと思うことだろう。そこまで下衆めいていなくても、歓楽街に来るほどの気持ちがあるなら、と考える輩は多いはずだ。
さきほどから、エミリーを視線で撫でていくやつはいる。それに気がついているのか分からないところも、庇護欲を擽った。昨晩から贔屓目に見ているのは分かっている。それでも、放っておくには近付き過ぎてしまっていた。
撫でてくる粘度のある視線を、睨み返して蹴散らす。それでもすべてを排除することは叶わない。
意図を持って近寄ってくる男。影を見るに獣人か何かだろう。横合いから出てくるそいつに気づいた俺は、エミリーの腰を引いた。
「っ!」
吐息をつめて俺を見上げるエミリーは、鳩が豆鉄砲を食らったようだ。
「いいから」
「何がですか……!」
叫んだり罵ったりしてこなかったのは上々だった。獣人の男には、エミリーがただ驚いたようにしか見えなかっただろう。声はギリギリまで落として、エミリーの耳元へ吹き込んだ。身長差があるので、顔を傾けてすり寄る形になる。獣人が舌打ちするのが見えた。
「男に絡まれるのは嫌だろ? 昨日の今日で」
これ見よがしに付け足した語句に、エミリーの視線が尖る。
「だからってこんなにべったりしなくても……みなさん、いるんですから」
「お前の身体がすっげぇそそるのは俺がよく分かってる」
腰を撫でると、頬に朱色が刷けた。暗がりでもそれが目視できるほど距離が近い。
「狙われてんだよ、エミリー。大丈夫。あいつらは気づかない」
渡會は周囲の観察にまっしぐらだし、その前の三人にも振り向く素振りはない。だからといって確約はできなかったが、堂々と言い切った。
エミリーはまだ何か言いたげだったが、前方を見つめて諦めたようだ。むくれた顔で、肩口に頭を預けてきた。
そういうとこだよ、馬鹿が。
付け入る隙がいくらでもある。別にそこまでしなくてもいいとは言い出せず、そのまましけこむカップルのように歩いた。男どもの目は、エミリーの物色から俺への羨望に似た敵意に変わっている。
これだけの美少女がそばにいるんだから、そんな視線に晒されるくらいで痛痒を感じやしない。涼しい顔をして、臆面なく歩く。実際、そのくらいのことを思える相手だ。
腕の中に収まるエミリーは繊細で、昨晩抱き寄せた記憶が呼び起こされる。泣き疲れて眠ったエミリーの無防備な破壊力に、俺は悶々とした時間を過ごしたものだ。
「丞さん」
か細い声を見下ろすと、不安げな瞳が見上げている。再び、昨晩の記憶がちらついた。
「なんだよ」
「言わないでくださいね、昨日のこと」
「そんな趣味はない」
「でも、だって丞さんが責められてるじゃないですか」
「今更だろ。遊び人にあれくらいの言葉が効くか。美人局みたいな女に引っかかって、彼氏とかいうのに殴り飛ばされたこともある」
「うっわ」
「気にすんなって気を遣ったやつに対してドン引きすんなよ」
「そこまでとは思わなかったので」
「女に最低だと罵られてバッグで昏倒させられたこともある」
「ひどい」
「ひどいよな」
「丞さんがですよ」
呆れた顔で突っ込まれた。けれど、俺を呼んだ際に浮かんでいた不安の陰は引いたのでいいのだろう。自分がひどい遊び人だったことは事実だ。そして、相応に罵られてきたのも現実で、それに比べればピュイたちのからかいなど蚊が刺した程度だった。
そんな少ないダメージを回避するために、エミリーの過去を暴露するつもりは毛頭ない。
異世界の厳しさを現実として知っている二人は、ある程度勘づいているのかもしれないけれど。それでも仔細を報告するつもりもなければ、エミリーの心情なぞ教えてやる義理もなかった。
「……助かります」
間を置いて零された感謝には失笑する。頭に額を押し当てるように応えると、邪魔だとばかりに肩口に頭突きを食らわされた。周囲にはいちゃついているようにしか見えなかったことだろう。
エミリーが秘密にして欲しいことは口にしなくても分かっていた。一晩には、それだけの濃密な時間があったのだ。
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