第五章

第一話

 今日のブラックは、珍しく人型だ。短髪の黒髪に、獣耳。黒い衣服の隙間からは、犬のしっぽが垂れ下がる。首筋には赤い首輪が嵌っていた。その姿で、キャンピングカーの後ろに小さく収まっている。


「ご、ごめんなさい!」


 さっきからことあるごとに謝っているのは、今回の旅人。作家の渡會椛わたらいもみじだ。異世界に取材に行きたいという精力的な旅の目的に比べて、気の小さな女性だった。

 とはいえ、彼女が恐縮しているのにはわけがある。




 ホテルで一夜を過ごした俺とエミリーは、翌朝キャンピングカーを置いてあった駐車場でキクたちと合流した。


「帰らぬのなら初めからそう伝えておけ。ブラックが不貞腐れておったぞ」

「悪い」


 昨晩、双子と別れたキクはキャンピングカーに戻って夜を過ごしたらしい。

 ブラックはその時間までかっちりお留守番となり、キクが深夜の散歩に連れて行ってくれたようだ。日本ではそうしなければブラックは自由に出歩けない。休むと決めたのはブラックだが、終日になるとは思っていなかったのだろう。悪いことをした。

 謝ると、ブラックはふんすと鼻を鳴らしたが許してくれたようだ。そして、何かに気づいたように俺とエミリーの匂いをすんすん嗅ぐ。

 俺は知らんふりで立ち上がり、


「ピュイは?」


 と尋ねた。


「もうすぐじゃと」


 眼前どころか半ば額に押し付けるかのごとく至近距離にスマホ画面を突きつけられて、四・五歩後退する。画面を見るついでに、スマホを奪い返しておいた。

 ピュイはセーラー服を着た女子高生スタイルに合わせたかのように、見事にスマホを使いこなす。画面にはもう着くとスタンプが送られてきていた。その連絡通りにすぐに合流し、いつも通りに出発する。

 助手席に座るエミリーは、俺のパーカーのファスナーをきっちり首元まで引き上げていた。昨日、その鎖骨に痕を残したのを思い出す。柔肌や甘い匂い。様々な感覚がまざまざと思い出されて、髪を掻いた。

 エミリーは何も言わずに、窓の外を眺めている。こちらも下手な手は打たずに、車を走らせて集合場所へと向かった。

 渡會との待ち合わせ場所は、駅前広場。降車しての迎えには、俺とエミリーで向かう。会話はない。気まずいのは分かっているので、あえて口を開こうとも思わなかった。

 滞りなく渡會と顔を合わせ、キャンピングカーへと案内する。そこまでは順調だったのだ。俺とエミリーのことは置いておいて。

 しかし、キャンピングカーの扉を開いた瞬間に、渡會は石化してしまった。


「どうされましたか?」


 凝視しているのは、ブラックだ。

 確かにブラックは獣人である。異世界の生物であるが、見た目は完全に犬だ。初対面で恐慌をきたすようないかにも恐ろしい異世界生物ではない。しかし、その恐怖は異生物に対するものではなかったようだ。


「あ、すみません。ごめんなさい。私、あの、犬は…苦手で……」


 語尾に行くほど勢いが削がれ、誤魔化すみたいに下手くそな笑いになった。床の上に丸まっていたブラックは、困ったように耳としっぽを垂らす。


「ご、ごめんなさい!」


 渡會は、ブラックの変化を敏感に察知しているようだった。気を配り過ぎるのか。それとも、過敏になっているのか。何にしても、こちらの不手際であった。


「すみません。事前確認を怠りました。ブラックは獣人なので、ちゃんと人間の言葉が分かりますし、同等の頭脳を持っています。渡會さんに襲いかかるようなことはありませんから、安心してください。助手席にでも隔離しましょう」


 ブラックはぶんぶんと頷いている。苦手と言われながら素直な態度を貫き、相手のことを思う行動ができるのだから、十分に立派なやつだ。渡會にも、知能があることを示せていることだろう。


「丞さん。道案内は大丈夫なんですか」

「俺の後ろに控えてろよ。すぐ分かるだろ」

「……迷うことに自信たっぷりなのやめてくださいよ」

「心配してきたのはそっちだろうが」

「そうですけど、私がフォローして当然って態度はどうかと思います」

「悪いな。俺はお前を信用してるんだよ」

「そういう、そういうことを言うわけですか! タラシ。このっ、人タラシ!」

「なんで二回言った?」

「あの!!」


 白熱しかけた会話に、より熱い声が割り込んでくる。こちらを見上げていたのは渡會だった。


「獣人って、あの獣人ですか?」


 あの、と言われても困るが、まぁ言わんとすることは分かる。日本人のイメージでは、獣耳やしっぽ。身体のどこかに獣の特徴を残した人型の生物だろう。

 それのことかと、渡會は瞳を輝かせていた。異世界への興味は強いらしい。取材に乗り込んでくるだけのことはある。心意気は山方たちを思い出させられた。


「そうですね。人型にもなれますよ」


 そう言うと、渡會さんの瞳の輝きは一層に増す。キクが魔法でも使ったのではと疑うほどにピカピカしていて眩しい。


「……人型なら、犬でも平気ですか?」


 聞くと、少しだけ瞳が曇る。


「分かりませんけど……けど! 獣人さんの姿は見てみたいです」

「変身ってそれなりに驚きますから覚悟してください」

「はい!」


 恐怖は興味に上書きされたらしかった。強気と弱気のミックスが度外れていて、振り幅がでかい。

 苦笑した俺に、ブラックは小さく吠えた。渡會は身を縮めたが、それでも変身が気になっているのだろう。目を逸らさずに、じっと様子を窺っている。

 ブラックは、何を求められているのかを理解していた。まぁ、会話が分かるのだから当然だが、暗黙の視線にも答えられる対応力がある。

 ブラックはめりめりと体格を変えていった。相変わらず、謎だらけの変化だ。人型になると服を着ていることについても、謎が謎を呼ぶ。数十秒間の間に、ブラックは人型へ変形を終えた。

 背が高くてひょろっとしている真っ黒な衣服の男。それが外見の印象だ。

 その変貌を、渡會は放心したように眺めていた。放心はしてたが、そこには潑剌とした好奇心の色が蠢いている。真っ直ぐに見つめ続ける渡會に、ブラックはたじろいでいた。


「えっと……」

「わっ!」


 声を上げた渡會に、こちらまで声を出しそうになる。全員がびくっと震えたことに、渡會までビクついた。そうして、きょろきょろと俺たちを見回す。俺たちが驚いた原因が分かっていないような反応には、苦笑が零れた。

 渡會は、ぽつりと呟く。


「しゃべれるんですね」

「話もできるぞ」

「ため口ですし、よく噛みますし、意味が通じないこともありますけどね」

「じょうずになったぞ」


 ふんと鼻息を鳴らして、肩をそびやかす。自信満々なブラックに、渡會は感心しているようだった。さきほどまでのビビりは和らいでいる。これで問題が解決するのなら、それでいい。そう思っていたのだが、事はそう簡単ではなかった。

 和らいだからといって、苦手意識が消えたわけではないらしい。ブラックが動くたびにびくびくと震えた。頭で理解しているのはこちらにも伝わったが、条件反射で腰が引けてしまうらしい。

 犬耳としっぽがあるおかげで、犬だという認識は薄まらないようだ。結果として、ブラックは車の隅に寄り、渡會が度々謝罪を口にするという車内情景ができあがっていた。

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