5  秘すれば華なり

「なぜに毒は毒なのか」


 雪梅シュエメイ嬪はそんなのわかりきっているとばかりにいった。


「有害だからでしょう?」

「左様です。それではなぜ、害なのか。

 毒は人体の機能を阻害、または過剰にすることで細胞や臓器を破壊します。例として蛇の毒は血の働きを強めることで、逆に血の細胞を破壊して傷が塞がらないようにします。それゆえに毒は、毒となるのです」


「なるほどね、それは解るわ」


「ですが、医の祖は斯く語りました〈森羅万象、一切都是有毒的――万象万物、此れ、ことごとく毒なり〉と」


 植物が育ち、実を結ぶためには水を要するが、水を与えすぎれば根から朽つ。これはつまり、水が毒になったということだと、慧玲フェイリンは解説する。


「いかなるものも過ぎたれば、毒となります」


 地毒ちどくとは陰陽の調和が崩れて、それぞれの要素の《陰》もしくは《陽》が強くなりすぎたことで生ずるものだ。


 過ぎたる、それゆえに人の身に障る。


「御存知でしょうか。ひとの身のなかでは絶えず、火が燃えているということを」


 慧玲は喋りながら、自身の下腹に触れた。そこに収まるはらわたをたどりながら、そこで燃え続ける不可視の火を意識させるように。


「考えてもみなかったわ」

「火だけではありませんよ。この身には水が流れて土も肥え、金の脈が通れば、木もまた根を張っています。それゆえに木が強くなりすぎれば肌から梅も咲き群れるのです」


 雪梅嬪の踵でまたひとつ、紅珠こうじゅのような莟が弾けた。


「痛みはございますか」

「ないわ。つまさきが動かなくて、これまでのように舞えなくなったのが難だけれど」


 いつだったか、慧玲は母親のもとで木の毒に侵され、桜になってしまった病人をみたことがあった。木膚きはだは段々と脚頚あしくびからあがってきている。解毒しなければ、じきに雪梅嬪も梅になるだろう。

 木になった患者は黙して語らず。慧玲には想像するほかにないが、人間としての意識だけ残されたままで動ずることも喋ることもできない木になるのだとすれば――


(おそろしい。考えるだけで身震いがする)

 

 窓から春の風が吹きこむ。噎せかえるほどに梅が香った。馨香けいこうに誘われた蝶が窓から舞いこんでくる。白い鳳蝶あげはちょうだ。

 雪梅嬪は蝶にむかって、指を差しだした。


「蝶は好きよ。かぐわしい花に集うから」


 爪を飾る梅に惹かれたのか、蝶がとまる。


「女は、かおってこそよ」


 潤む唇をほどいて、彼女は歌でも口遊くちずさむようにいった。彼女ほどその言葉にふさわしい者は後宮どころか、都中を捜してもいないだろう。


「三日の後、皇后陛下が宴を催されるわ」


 皇后は毎季、後宮の妃嬪を集めて、春夏秋冬しゅんかしゅうとうを愛でる盛大な宴を催す。これは現在の皇后が始めたものではなく、後宮の習わしのようなものだ。召致されるのは季妃きき、嬪、婕妤しょうよまでだ。嬪である雪梅にもすでに声が掛かっている。


「早春の宴は春の季妃きき様の主催だったから辞退もできたけれど、皇后陛下直々の召致とあれば参加せざるをえないわ。そのときは舞も披露しなければ」


 すでに雪梅嬪がせっているという噂はまわっている。病に侵されていることを公表してはどうかと慧玲は安易に考えたが、それは舞姫として功をあげてきた彼女の位にも傷をつけることになる。再びには舞えぬとあれば、降格や下賜かしも考えられた。


「ああ、もちろん、貴女が薬を調ととのえられないのならば、それでも構わないわ。もとから期待などしていないもの」


 細い指の先端から鳳蝶あげはが舞いあがる。


「杖をついてでも、舞うわ。都のどんな芸妓げいぎよりもたおやかにね」


 それができる、あるいはできなければならないのだという気魄が、べにに飾られた瞳もとから漂っていた。


 雪梅嬪は強かだ。日陰で毒のある噂を紡ぎ、無意味に微笑みあっているだけの妃妾たちよりも遥かに。慧玲フェイリンは華の舞姫に敬意を表す。


「お約束いたします。かならず演舞までに薬を調ととのえ、毒を絶ちましょう」


 雪梅嬪は「そう」とだけいって、柳の眉を微かに寄せた。さきほどの言葉どおりだ。希望は持たない。けれども慧玲の静かな声から、これまでつちかってきた信念の強さを感じてもいるのか、むげに否定することもなかった。


 診察を終え、慧玲が最後にひとつ、問い掛けた。


「時に雪梅嬪は、梅とご縁はございませんでしたか」


 雪梅嬪は一瞬だけ視線を彷徨わせた。

 瞳の底に梅が映る。昏がりにほつほつと燈った夜梅。だがそれは一陣の風にさらわれるように散り、後にはただ、虚ろな眼差しだけが残された。


「梅のように麗しいと称えられたことはあるわ、飽きるほどに」


 雪梅嬪は「診察が終わったのならさがって、疲れたから」といって顔を背けた。

 彼女は何かを隠している。慧玲はそれを感じたが、無理に問い質すことはせずに低頭して房室へやを後にした。

 




 春の廻廊をまがったところに女官がいた。

 小鈴シャオリンだ。淹れたばかりの茉莉花茶モーリーフアチャーを盆に載せて運んでいくところだった。


(茉莉花茶……心を落ちつかせる効能のある香りのよいお茶だ。西の大陸ではジャスミンという。このお茶を欲しがるということは、雪梅嬪はよほどに疲れているのね)


 慧玲フェイリンは廊下の端に寄り、頭をさげる。

 小鈴は慧玲を食医として扱ってくれているが、実際は嬪つきの女官である小鈴のほうが高位にあたるからだ。だが小鈴は慧玲のことをみるなり、「あ」と声をあげ、慌てて弁明を始めた。


「あの……どうか誤解なさらないでください。雪梅シュエメイ様は悪い御方ではありません。ただ、想ったことをすぐに言葉になさる御方、といいますか……心根は御優しいのですが」


「承知致しております」

「え、あっ……てっきりご気分を害されたものと。これまでお越しになられた医官は皆さま、そうだったので」


(あの様子だとなあ。なにかと損をしそうなひとで、私は嫌いではないけれど)


「あ、そうです。宜しければこちらの菓子をお持ち帰りくださいな」


 盆に載せた茶器はふたつ。慧玲の分も淹れてくれていたのだ。もうお帰りでしたらせめて菓子だけでも、と小鈴は差しだす。


「わあ、梅枝ばいしですか。懐かしい。昔一度だけ、都の市場で食べたことがございます」


 梅枝は米粉を蒸してから揚げた素朴な菓子だ。慧玲が頬をそめて喜ぶのをみて、小鈴は意外そうに瞬きをする。


「そんなにお好きなのでしたら、もうひとつもどうぞ」

「でもこちらは、雪梅嬪が」


「構いません。雪梅様はたぶん、召しあがりませんから。前までは甘い物が御好きだったんですが、この頃はなぜか苦いと仰られて。食事はちゃんと取られるのですが」


「そう、ですか。それでは遠慮なくいただきます。ありがとうございます」


 感謝して受け取りながらも思考は廻る。


(間違いない。雪梅様は……ご懐妊なさっているのだ)


 味覚異常は妊娠初期に起こる悪阻つわりの際に多くみられる。また脈を測ったとき、盆に珠を転がすような滑脈かつみゃくが表れていた。懐妊の証といわれる脈だ。


 雪梅嬪は、ふたつの秘密を抱えていることになる。病臥びょうがと懐妊、だ。


 秘すれば華なり。秘せずば華なるべからず。

 華の舞姫にはまだ秘するものがある。それが最大の隠し事だろう。何故ならば、すでに明らかになっているふたつの秘密は、梅とも《木の毒》とも繋がらないからだ。


 最後の秘め事こそが――舞姫を侵す《毒》だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る