五、レイガー③

 また、激しいレイガーの衝動からか、たまにシェルを見る目は熱を持っていた。シェルはその熱い視線を気付かないふりをしていたが、内心ではとろんとしたまなしに心臓がバクバクと音を立ててしまっていた。


(この音……、聞こえちゃってたらどうしよう……?)


 獣人国で過ごしているうちに、シェルには分かったことがあった。それは、獣人たちは筋力だけではなく聴力もとても良いというものだった。シェルが緊張している様子や戸惑っている様子など、全て筋肉のかんする音と心音を元に判断しているようだった。それゆえ獣人たちはとても人の感情の機微に敏感だった。

 だからこそ、シェルがゼールに見られた時に緊張していることは少なくともフォイには伝わっていることだろう。毎回、シェルがゼールに見つめられた時、フォイは音もなく部屋を出ていったのは、シェルが『極上のいけにえ』としての責務をまっとうできるよう、フォイなりの配慮だったに違いない。


(ゼール様にも、聞こえてる……、よね?)


 シェルはチラリと上目遣いでゼールの様子をのぞする。するとじーっとこちらを見つめるゼールと視線がぶつかってしまうのだった。


(ヤバっ!)


 シェルは慌てて視線をらせると、獣人国の国民たちを知るために王宮の図書館から持ってきていた本に目を落とす。しかしその内容は全く頭に入ってこないのだった。

 そんな日々の中、シェルの心境に変化があった。日に日に弱っていくゼールを見ていると、


(私が、ゼール様を楽にして差し上げたい)


 そう思うようになったのだ。男性経験のないシェルは『極上のいけにえ』としての責務をまっとうすること自体には恐怖を感じていたが、それでも相手が他ならぬゼールなら、と少しずつその覚悟を固めていくのだった。

 シェルがそうして覚悟を決めている間、ゼールは迫り来るレイガーの衝動をなんとか抑え込んでいた。

 何度、目の前にいるシェルを食べてしまおうかと思ったことか。

 そのたびに我慢をし、まるで餌を前にお預けにされているペットのようだと自分をすることもあった。


 今の自分は危険だ。


 そう感じたゼールは何度も何度も、シェルへ国へ帰るよう警告をしている。しかしシェルはかたくなにその警告に応じようとはしなかった。


(本当に、食っちまうぞ?)


 ゼールは荒い呼吸をなんとか押さえ込みながら、視界の端で読書をしているシェルを見つめる。シェルは涼しい顔で獣人国の歴史書を読んでいた。そんなシェルの横顔を見ていて、ゼールは妙案が浮かんだ。


「おい、シェル」

「何でしょう?」

「そんなに帰りたくないなら、お前、俺の身の回りを世話しろ」

「身の回りの、お世話、ですか?」


 急なゼールの申し出にシェルはきょとんとした表情でゼールを見返していた。


「できないようなら、お前は問答無用で国に帰ってもらう」


 ゼールは確信していた。今までのシェルの様子からして、彼女は箱入りの姫なのは間違いない。そのため家事全般はできないだろう、と。さぞや困った顔をしているのかと思ったゼールは、シェルの表情を見て驚いた。

 彼女は、優しくほほんでいたのだ。


「気が利かず、申し訳ございませんでした。では、まずはお洗濯から致します。今日はすごく、天気も穏やかですから」


 思わぬシェルの言葉に面食らったのは、条件を提示したゼールの方だった。


「お前、それ、本気なのか?」

「何がですか?」

「洗濯」

「お嫌、ですか?」


 さも当たり前のように言うシェルにゼールの頭は混乱する。こんな箱入りの姫に洗濯などできるはずがない。きっと大惨事になることだろう。


(それはそれで、追い出す口実ができるってものか)


 ゼールはそう思うと、


「分かった。お前に任せる。俺の世話をやってみろ」


 そう言って自分の執務へと戻るのだった。

 ゼールから世話を言いつけられたシェルはまず、先程の発言通り洗濯を行っていた。このティエリーク大陸では、洗濯は全て手洗いだった。穏やかな季節の今はまだいいが、寒い季節になると冷たい水が肌に刺さって痛い。それでもシェルは人間国の王宮では自分の洗濯を自分で行っていたため、洗濯などは苦には感じなかった。


(ゼール様のお役に立てるのであれば……)


 シェルはその一心で洗濯板を使って洗濯物を洗っていく。


「シェルさんっ? 何をなさっているのですかっ?」


 その時、驚いた悲鳴を上げたものがいた。普段、ゼールの洗濯を行っている獣人の使用人だ。彼女はシェルが人間国の姫であることも、『極上のいけにえ』であることも知っていた。

 まさか『お姫様』が洗濯をしているなどと夢にも思っていなかったのだから、その衝撃は計り知れない。そんな悲鳴にシェルは洗濯を干していた手を止めると、使用人へと顔を向けて。


「ゼール様の言いつけにより、お洗濯をさせていただきました。あなたのお仕事を取ってしまってごめんなさい」


 そう言って頭を下げた。驚いた使用人が慌てる。


「顔を上げてください! と、とりあえず、洗い残しがないかの確認だけさせてもらいますが、よろしいですか?」

「お願いします」


 シェルも洗剤の洗い残しが万が一あっては危険だと言うことを承知していたため、使用人の申し出を素直に受けた。使用人は干してある洗濯物を丁寧にチェックしていく。それから、


「完璧でございます……」


 あまりのできに思わず感嘆の声を漏らした。シェルはニコリとほほむと、


「では、残りの洗濯物を干す作業はお任せしますね。私はお掃除を始めますので」


 そう言って中庭を出て行った。

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