第21話.宿屋アガネ
泥の中に埋もれていた意識が、急に表面に浮き上がるようにして。
クナは目を開けた。
「……もう朝か」
まだ意識の片隅が泥に浸かっているようで、気分が良いとは言い難い。
薄いカーテンの隙間から、まぶしいほどの朝日が射し込んでいる。それが目に入って、覚醒を促したようだ。
むくりと起き上がる。身体の下で、ぎしりと寝台が軋む。
クナは寝ぼけ眼をこする。よっぽど、疲れが溜まっていたのだろう。昨夜、部屋についてからの記憶がなかった。
昨日は組合を出たあと、宿屋『アガネ』に向かった。
二階建ての『アガネ』は見るからに古い宿屋で、煙突があるのが特徴といえば特徴だった。数えると部屋数は二十あったが、ほとんどの部屋が薄暗かった。ただし、人の気配はしていた。
裏手に回ると、厩舎と呼ぶにはあまりにぞんざいな造りをした掘っ立て小屋があり、繋がれた馬や驢馬が餌桶に顔を突っ込んでいた。
「ロイ、ここで寝ろって言われるかもね」
「…………」
ロイは答えなかったが、どこか茫洋とした眼差しで、糞のにおいがする厩舎を眺めていた。
宿の受付は一階にあった。三百ニェカは前払いだ。
ロイについては、小便をして床板を汚さないようにと注意された。一応、部屋に連れて行ってもいいようだ。
年老いた亭主には睨まれたが、ロイが元気よく鳴いて、それが「あいわかった」というように正確な返事だったものだから、目を丸くしていた。クナは、おかしくて噴き出しそうになった。
クナは二階の部屋を借りた。古い階段を軋ませながら小さな部屋のドアを開くと、粗末な寝台と、数時間と持たないだろう小さな蝋燭がおかれた燭台が待ち受けていた。
まずは湯浴み場で汗を流し、食事にしようと思ったはずなのだが、床に荷物をおき、寝台に尻をのせた瞬間から記憶がない。あのまま、気を失うように寝てしまっていたのだろう。
ロイは黄ばんだシーツの上で丸くなっていた。クナと並んで寝ていたようだ。
くっついて寝ていたようで、クナは全身にじっとりと汗をかいている。ロイの身体は毛に覆われていて、暑苦しいのだ。
森で過ごす夜は寒いくらいだったが、ウェスとは気候が違う。だが、怒る気にはならなかった。人肌――ではないけれど、ロイの体温は安心する。
「湯浴みに行こう」
声をかけると、ロイは床の上に飛び降りて、大きく伸びをした。爪がシーツに引っ掛からないようにしたのだろう。やはりおそろしいくらい、賢い獣だ。
欠伸をするものだから、クナもつられる。目のはしに涙がにじんだ。
着替えと手拭いを持って、一階奥の湯浴み場に向かう。
町湯の数は限られているので、『アガネ』には入浴だけしに来る町民も居るようだ。入湯料は、百五十ニェカである。
湯浴み場は男女でわかれている。女のほうはまったく人気がない。何かわけありでなければ、ひとりで宿に泊まる女はそうそう居ないし、男女で旅をするなら、こんな安宿は選ばない。人目がないおかげで、堂々とロイを連れて行ける。
脱衣所でクナはさっさと服を脱ぐ。森の中で拾った麻の服だ。
昨夜は着たまま寝てしまったが、これは裾を切って寝着として使おうと考えている。生地が薄いから、これからの季節にはちょうどいい。
ガウンを着たクナの足元にロイがまとわりつく。湯浴み場から漂う湯気に反応しているのだろうか。『死の森』に温泉は湧いていないから、賢い獣も、湯浴みをするのは初めてだろう。
湯気を逃さないよう、しっかりと閉められたドアを開ける。
湯浴み場の周りは柵のように、クナの身長の倍以上はある高木に囲まれていた。湯気を絶えず浴びているからか、木皮の表面は一部腐っている。
一度に八人くらいは入れるだろうか。立派な湯殿だ。これを維持するために客室はぼろいのだと、クナは納得した。薪の代金を考えても、三百ニェカは安すぎる。
湯は澱んでいない。手をつけると、一定の温度に保たれているのが分かった。今朝、湯を換えたばかりなのだろう。
たらいに湯をすくって、クナは自分の身体にかける。
足先から、膝に。太ももから腹部、胸部にと、ゆっくりと、贅沢に湯を使っていく。
「ふわぁ……あったかい」
張り詰めていた糸が一気に緩むように、気持ちが安らいでいく。
視界の悪い湯気の中だと、まだ、夢の中でまどろんでいるようだと思う。
アコ村にはひとつだけ大衆浴場があった。三つの小さな浴槽が並んでおり、そこに腰かけて水で身体を洗うのだ。水は桶に貯めた雨水を使う。小さな村では水は貴重だった。
店で稼いだ金のほとんどはドルフが持っていくので、クナは浴場に行くお金がなかった。だから三日に一度、濡れた布で身体を拭う程度だった。
(ばあちゃんに湯浴み場の使い方、教わってて良かった)
若い頃のマデリは、いろんな街や村を巡ったという。
その思い出話のひとつとして、湯浴み場のことを聞いたことがあったのだ。
クナは髪も濡らすと、ガウンのポケットからマーゴの花を取り出す。
マーゴという落葉樹は、春から晩秋まで枝の先に大ぶりな花をつける。森の中で見つけるたびクナは木に登り、花を回収しておいた。沢で沐浴するときも重宝していた。
マーゴはくすんだ青色の花である。この花弁を、水をつけた手のひらで擦り合わせると、ぶくぶくとした泡が生まれる。それで髪や顔、身体を洗えば、汚れがよく取れるのだ。湯浴みだけではなく、衣服を洗濯するときも使える。
クナはマーゴで全身を洗っていく。
無意識にこぼれる鼻歌は、昨年の収穫祭で外から聞こえてきたものだ。
――『外れポーションを作るお前なんて、祭りに参加する資格はないぞ』
ドルフにそう言われて、クナは村人が総出で行う収穫祭にも参加できなかった。お腹が空いて、ひとりで寝台に横になっていると、村人たちが広場で焚き火を囲んで歌う歌が、耳に入ってきた。マデリが居た頃はクナもよく歌っていたものだ。
ぱちぱちと炎が爆ぜる音。誰もが一年に一度のご馳走を口に運んでいる。自分の腹が空腹を訴える音だけが、暗い部屋にみじめに響いていた。あの頃は空腹を紛らわすために、クナは鼻歌で、歌の切れ端をなぞっていた。
「――きゃん!」
急にロイが鳴いて、クナは驚いて動きを止める。
見下ろせば尻尾を懸命に振っているが、湯がはねてびしょびしょになっている。
「……はいはい。あんたも洗ってあげるから」
「クゥン」
まず、自分の全身の泡を流してから、残りのマーゴでロイの小さな身体を洗う。
土や泥のはねた足は茶色いので、特にそこを重点的に洗ってやる。毛はほとんど抜け落ちない。夏の時期になれば生え替わりのために、もっと抜けるのだろうか。
お湯をかけると、ロイはうっとりとしている。それからぶるぶると身体を震わせ、湯を無造作に払った。自分が神秘的な銀狼であったことなど、忘れてしまったような振る舞いだ。
ぴしゃぴしゃと水溜まりを踏むロイを尻目に、クナは湯船へと向かった。
足先が湯に触れるだけで、あまりの心地よさに声が漏れそうになる。ゆっくりと身体を沈め、そっと尻を固い岩の上に下ろすと、クナは湯気のような白い息を吐いた。
「ふうぅ……」
それからしみじみと呟く。
「良い宿屋だ」
しばらくはこの宿屋を拠点にしようと、クナは決めたのだった。
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