第1章 太陽をつかむ草原 第1話 外への憧れⅣ

「静かになった…?」

 マチルダに追走されていた男が、白壁に背中をもたれかかりながら呟いた。

 人心地がついた様子で大きく息を吐いてその場に座り込む。

「都の子供は皆ああなのか、それともあの子が特別なのか―」

 走って追いつける自信があるから追いかけてきたのだろうと推察していた。

 わずかな猶予ゆうよを得たからであろう、都までの長旅の疲労から来る欠伸あくびが出る。

 男は身体に肉付きが少なく中背で、黄ばんでしなびた衣服を身にまとい、その顔には深い豊麗線ほうれいせんが刻まれていた。ひたいから流れる汗をぬぐおうとするも、腕も汗だくで気休め程度にしかならないと悟り、やむをえまいとゆっくりと立ち上がった。

 どこもかしこも似たような景色が続いていて、しかも上に行ったかと思えば下るような坂道がいくつもあって、なるほどこれは小さい頃から鍛えられていると感じ取っていた。

 都の住民は昼寝が習慣だということは既知きちで、そしてたまたま門番がいないことがわかって入ってみたものの子供に見つかり追いかけられる。この一件で都に入れなくなって物資ぶっしの取引ができなくなったら、はたまた最悪集落の皆まで巻き込んでしまったら―都住まいはどんなものかという好奇心が高くつくかもしれないということで男の表情は沸き立つ熱気に反して青くなっていった。

 すでにマチルダに顔も割れているため、上手く逃げ切ったとしてもマチルダが報告してしまえばいずれは捕まってしまう。できることなら自然な形で弁明できないかと歩きながら思考を巡らせていた。

 居住区を抜けるには壁のない北の端まで行き、そこから西に進むと海岸へ降りる階段が続いている。直接西へ行ったとしても断崖絶壁だんがいぜっぺきで落下したら一巻の終わりであるため、都心へと続く海岸へは直接通れない。

 土地勘とちかんがない者でも居住区の上方からの景色でそれがわかったため、とりあえず男は北を目指していた。

 そこへ、聞き慣れた足音が近づいてくるのがわかった。

 男はマチルダが近づいてきているのを察知して再び走り出す。

 右に左に今度は坂道を上り、次は緩やかに曲がった道を右へ。相変わらずいくつもの似たような景色が男の視界を通り過ぎていく。

 遠くから聴こえてくる足音は鳴り止まない。

 なるほど、ここの住民は子供にまでおきてを教えているのかと走りながら思う。

 しかし今後のことに怯えながら感心したのも束の間、左へと走り抜けようと曲がったらべしゃりと耳慣れない音が足元から聴こえた。

 一体何かと足跡を見てみると白壁の塗料である。

 靴の裏が緩やかに滑り、途端に走りづらくなる。歩くだけでも足跡が残るため、撒くことが困難になってしまった。

 男を焦燥感しょうそうかんが襲うも、逃げ続けるしかないと走ることを継続した。

 走り続けていると、やたらと家と家の間の影ができる場所に花壇が行く手をはばむようになっていた。

 影の中を進むことを諦めようとするが、人目につきやすい場所を進むのを恐れて継続して走り続ける。

 花壇に誘導されるようにとうとう都の東の端である壁の傍まで来てしまったところで、マチルダが追ってきている姿が見えた。

 前を向いて走り出し、北からは遠ざかるが門の方へ、右へ走り抜けようとした瞬間、男の視線は巨大な壁から白い雲と青い空へと移っていた。

 走り続けた疲労と、腰のあたりにジンジンと来る鈍痛どんつうで男は仰向けになったまま動けなくなっていた。

 さらに、鼻を突くような匂いが遅れてやってきた。

 玉ねぎの匂いである。

「ごめんなさい」

 男の傍にアーチェスは立って、無惨むざんに割れた玉ねぎを一瞥いちべつした。

 マチルダも息が上がり疲れ果てた様子で、歩いてアーチェスの隣にやってきた。

「やっぱりおじさん、悪い人じゃないよ」

 男は自分を見下ろす二人を視界に収め、意識は微睡まどろみの中に落ちて行った。

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星風紀行 鳥街陽蓮 @yoren-torimachi

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