第89話

 エルデュミオと視線を合わせたまま獰猛に笑い、ヘルムートは不意に力の行き先を変えた。唐突な変化に流されるしかできずに体勢を崩したエルデュミオへと、死角からの回し蹴りが叩き込まれる。


「――ぐッ!」


 腹の脇から受けた衝撃に、内側の器官が悲鳴を上げた。どうにか受け身の体勢だけは取ったが、勢いを殺すことすらできずに床に叩きつけられる。


「げ、ほっ」


 激痛と共に空気を吐き出す。一瞬感覚の全てが痛みのみに支配され、周囲の状況さえ把握できない。どうにか思考を取り戻したときには、ヘルムートの軍靴の裏が頭のすぐ真上にあった。


「――ッ!」


 そのまま、横に転がる以外の選択肢がない。寸でのところで回避が間に合った耳の隣を、金属補強された軍靴が勢いよく踏みつけにした。

 石材で敷き詰められた床が割れ、下の土までが露出する。

 ともかく立ち上がろうと、身を起こしたエルデュミオの丁度首の位置を違わず、ヘルムートが絶妙のタイミングで剣を振るう。


 エルデュミオとヘルムートでは、踏んできた場数に差があり過ぎる。エルデュミオが次に採る行動が、その予備動作から、あるいは性格や戦闘面における実力から、ヘルムートには読めるのだ。


「こ、のッ。させるか!」


 割り込んだアゲートがエルデュミオの頭を押さえ付けて伏せさせ、切断を防ぐ。代わりに刃を受ける羽目になったアゲートは、腕から硬質の音を立てて弾き飛ばされる。斬り落とされなかっただけ上々だ。


(まずい……)


 ヘルムートと戦うことになればまず勝てない、というのは想像していた。だが想像より実力差は圧倒的に過ぎた。

 ゆるり、と上段に剣を持ち上げたヘルムートは、刀身に呪力を纏わせる。そして右足を軸に半回転しつつ、何もない場所に向けて剣閃に乗せた風刃を飛ばした。


「くッ!」


 苦い声を上げて、身を沈めて風刃の下から滑り込むようにエルデュミオたちと合流したのは、リーゼだった。

 不意打ちを仕掛けようとして看破されたのだ。


「その程度の技能スキルで、私を欺くつもりだったか。見くびられ――」


 唇に冷笑を張り付けていたヘルムートの表情が不意に凍り付いて引きつり、大きく飛び退いた。着地に彼らしくもなくたたらを踏む。

 その脇を、黒い影が疾駆した。交差の瞬間鋭い金属音が立て続けに響き、最後に力任せに吹き飛ばされるに任せまま、離脱する。影はエルデュミオを庇うように前に立つ。


「エルデュミオ様、退却を」

「フュンフ!」


 リーゼと合わせ、二段構えの奇襲だったらしい。己より技能の高いフュンフに本命を任せ、あえてリーゼは囮になったのだ。

 甲斐あって、ヘルムートの動きは一気に精彩を欠いた。身体能力を阻害する薬品なり呪紋なりにかかっているのは間違いない。

 しかしそれでも、彼はフュンフの追撃を防ぎ切った。じわりと脂汗を額に浮かべており、防御に寄った構えに移行したものの、未だ隙はない。


「こちらへ!」


 そしてどうやら無駄にじりじり下がっていただけではなかったクロードが、床下の通路を開いて誘導の声を上げた。

 まず真っ先にクロードが、それからシャルミーナ、エルデュミオ、リーゼ、アゲートと続く。最後まで残ったフュンフが地下に飛び込むと、アゲートは迷わず床を壊して道を塞いだ。


「まあ」

「ああああの、あまり壊すのは……」

「言ってる場合か。死にたいのか?」


 クロードの嘆願を無視して、先に進むたびに適当な距離で天井を崩し、道を塞いでいく。


「この道は、どこに出るんだ。というか、何の道なんだ」

「緊急時の、脱出用地下通路となります。あとは……正面からは難しい客人などをこちらからお招きすることもありますね」

「どうりで」


 天井、床、壁と、全てがきちんと舗装されている。後半の理由の方が主な使い道だと思われた。

 ただの書庫ですという顔をした場所に設置するのは、悪くない判断だっただろう。おかげでエルデュミオたちも命拾いすることができた。


「追ってきますかね?」

「七割方、追って来ないだろ。――う……ッ」


 普通に歩いて喋るだけでも、負った怪我に響く。だが今は休むより先にもう少し先まで進んでおきたい。


「ディー様」


 呻いたエルデュミオへと駆け寄り、リーゼはその背を支えながら腕を自分の肩へと回した。


「体重、掛けて大丈夫ですから」

「……悪いが、そうする。辛くなったら言え」

「はい」


 残り三割にかけてヘルムートが追って来たときのために、完全に手を空けている状態の者は確保しておきたい。戦闘能力的に、アゲートとフュンフが妥当だ。


「一体なぜ、このようなことに。何が起こっているというのでしょう」


 クロードが混乱し合ため息をつくのも無理はない。彼にしてみれば、聖王の判断に少しの疑問を持った、というぐらいの認識である。


「聞いていただろう。あいつらは世界のマナを、丸ごと作り直すつもりだ。現在生きている生命は、当然皆一度死に絶えることになる」

「そのような途方もないことが、人の身で出来るとはとても思えません」

「結果は重要じゃない。果たすつもりで、実行に移している奴がいるのが問題だ」


 やはり人の身では叶わなかった、などという話で終わっても、滅茶苦茶になった世界が戻るわけではない。


「どこまで知っているか分からないが、というかおそらくほぼ何も知らないんだろうが、現状聖王はルーヴェンに味方している。それのせいでな」


 シャルミーナに預けた神樹神子録を指して言うと、リーゼが不可解そうに首を傾げた。


「嘘を書いたのって、そんなにマズいです? いやもちろんマズいですけど、世界と天秤にかけても?」


 マナの枯渇にルーヴェンたちが関わっている話は、クロード経由で聖王にも伝わっているのだ。そうだというのに、というリーゼの感覚はもっともである。


「一つ、荒唐無稽な憶測ならできるが……。今は大して重要じゃない。それより、起こっている事態に対処をする方が先だ」

「ではそろそろ一旦休んで、治療を行いましょう。ヘルムート殿は、追ってきてはいないようですし」

「……そうだな」


 のんびり休んではいられないが、治しておいた方が後の時間短縮になるのは間違いない。

 クロードの言う通りヘルムートの追撃はなさそうなので、エルデュミオはうなずいて腰を降ろす。傍らにシャルミーナが膝を突き、治癒呪文を構築し始めた。


「そちらの――アゲート殿でしたか。貴方は大丈夫ですか?」

「俺は問題ない」


 エルデュミオを庇い、アゲートもヘルムートから派手に一撃を貰っている。気遣ったクロードに、アゲートは言葉通り平然とした調子で答えを返す。

 アゲートのことを知っているリーゼは複雑そうな顔をしているが、追及はしないつもりのようだった。当面、一番厄介なのはルーヴェンたちであるのに異論がないせいだろう。

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