第3話 ここに記さん――

 前田まえだ敏生としきは、ただの筋トレ好きな会社員だった。外回りの営業社員として働く傍ら、筋トレを欠かさない。常に自己鍛錬を惜しまず、理想の肉体を追い求める。ボディビルの大会でも入賞を果たすほど、彼の肉体は仕上がっていた。


 そうして前田が日々、筋肉を痛めつけていた理由。それは、愛する妻と息子たちを守るため。そして、家族みんなに安心して欲しかったからだった。旦那・父親は強いんだぞ、と。魔獣溢れるこの世界でも、お前たちを守ることができるんだぞ、と、示したい。その一心で、前田は日々を懸命に生きていた。


 しかし、魔獣と天人がいる現代日本は、時に、ただの人間でしかない人々の想いを踏みにじる。


 およそ10年前。まだ、特派員という存在が生まれたての頃だ。その日、前田は営業の外回りを早く終えた。頭は決して良くないが、いかんせん人柄が良いと評判の社員だった前田。商談も上手く行き、このままいけばボーナスも期待できた。


 幸いにも大阪……内地の閑静な住宅地にある前田家は魔獣の被害を受けることもなく、上の息子はもうすぐ小学生になる。努力の甲斐あって、公私ともに順調だ。


 ――どうかこのまま。


 前田がそう願った矢先のことだった。


 帰宅すると、家の中が荒らされていた。まさか強盗かと、リビングに駆け込んでみれば、そこには血まみれで倒れ伏す家族の姿があった。救急車を呼ぶことを諦めてしまうほど、無残な死体。それが3つ、転がっている。


 そして、死体を貪る生物が、そこに居た。


 特徴的な巻き毛を持つ、茶色い大型犬。名前は、ペコ。前田家で飼われていたペットのプードルだった。ただし、口元を血で汚すその犬がペコであることを、前田はすぐに認識することが出来なかった。愛嬌のあったつぶらな瞳は白く染まり、足はまるで昆虫のように、ケラチン質に変化している。


 言わずもがな、ペコは魔獣化してしまっていた。


「ペコ……。お前、どうして……」

『グルァ……?』


 膝から崩れ落ちた前田の力ない言葉に、小首をかしげる魔獣。花を咲かせるように頭部で開く口には無数の牙が生えており、家族の残骸がへばりついている。


 家族を守るために会社で真面目に働き、体を鍛えてきた前田。その努力は、しかし、魔獣という名の理不尽によってあっさりと否定される。しかも、前田が必死に守ってきた家族を奪ったのもまた、家族ペットだという皮肉。


 幸か不幸か、ペコが前田を襲うことはなった。鼻を鳴らしたペコが、まるで誘われるかのように庭に続くガラス戸を割って飛び出していったのだ。


 ただ、この時、前田敏生としきの心が死んだことは、言うまでもない。


 魔人マエダが生まれたのは、それから半年後のことだった。マエダ自身、いつ自分が“生もの”……つまり活性化したマナを持つ生物を口にしたのかは覚えていない。他の多くの魔人たちと同様、呼吸や食事の際に、無意識に小さな虫を食べてしまったのかもしれない。


 ただ事実として、道を歩いていれば、激しいめまいと頭痛が起きた。そして、その数秒後には、マエダの肉体と魔力は人間のそれをはるかに越えていた。


 運が悪かったのは、人の目がある中で魔人になってしまったことだろう。目の前で魔人となったマエダに人々は混乱し、逃げ惑う。その中に1人だけ、必死で〈魔弾〉を使用する女性が居た。


「――――っ! ――――!」


 何かを叫び、マエダに向けて何度も〈魔弾〉を放って来る。


 が、マエダ自身は軽く小突かれた程度の衝撃しか感じない。わずらわしいと反射的に振るった腕が女性に触れた瞬間、まるで乗用車にはねられたかのように女性の身体が吹き飛んだ。受け身も取らず何度も地面を転がった女性は、路肩の柵に激突して止まり、赤い液体をまき散らす。生死など、火を見るよりも明らかだった。


 予想外の結果に目を見開いたマエダは、続いて、目の前で立ち尽くす小さな女の子の存在に気が付く。先ほどマエダが吹き飛ばしてしまった女性は、この子を守ろうとしていたのだ。


「おい――」

「きゃぁぁぁ!」


 悲鳴を上げ、涙を流しながら怯える女の子。その瞬間、マエダの中に家族が死んだ日の光景が蘇る。


 家族を魔獣に奪われた自分が、今度は、他人から家族を奪った。


 残された者の気持ちを、マエダは嫌というほど知っている。こみ上げる罪悪感から逃げるように、マエダは逃げて、逃げて、逃げて……。道中、とある噂を聞きつける。


箱根はこね湯本ゆもとに、魔人の巣窟そうくつがあるらしい。そこでは魔人たちが身を寄せ合って生活しているそうだ』


 いつ殺されるか分からない恐怖と、罪悪感。孤独。3年をかけて箱根にたどり着いた頃にはもう、マエダの人間性と呼ばれるものはひどく歪んでいた。


 人は自衛のために、自身を害する存在を恐怖し、時に憎む精神機能を持っている。マエダも例にもれず、自分を殺そうとしてくる“人間”たちをいつしか憎悪するようになり、殺人に対する忌避感はとうの昔に消え去っていた。同時に、魔獣としての性質が、芳醇なマナを持つ人間を食べることを至上とするようになる。


 一方で、マエダの中にあった後悔――家族を守れなかったという感情――と、魔人になったあの日の女の子の涙に対する罪悪感は消えなかった。


 もともと“家族”というものに強い執着があったマエダ。箱根でしばらく過ごすうち、マエダはそこに暮らす魔人たちも親愛を覚えるようになった。自分と同じで大切なものを失い、あるいは踏みにじられ、精神を病んだ末に魔人化してしまった。そんな境遇への同情と、かつて家族を守れなかったという自身の後悔が合わさった時、マエダはいつしか箱根の魔人たちを守りたいと思うようになっていた。


 もう、マエダの中にかつて人間だった頃の記憶はほとんどない。妻の名前も、子供たちの名前も、思い出すことができない。それでも、マエダの中に残る家族への愛情が、箱根の魔人たちへと向けられる。


 自分たちを殺そうとしてくる人間たちから、今度こそ、仲間を……家族を守ってみせる。


 そんな覚悟と信念の強さこそが、マエダの強靭な肉体を構成していた。




「くっ……」


 振るった透明なナイフが、魔人の浅黒い皮膚を裂いただけの結果にとどまり、顔をしかめた優。カウンターで跳んでくるマエダの拳は、身をかがめ、横に転がることで回避する。


 しかし、魔獣と違って魔人は魔法を使う。マエダが放ったボウリング大の〈魔弾〉が、回避行動によって体勢を崩す優を襲う。直撃すれば、大型乗用車にはねられるくらいの威力がある黒いマナの塊。その危険性を知っているからこそ、シアは優を援護する。


 ――マナを絞って、絞って……撃つ!


 マナで作り上げた極小の銃弾を、マエダの〈魔弾〉に向けて放つ。


 こと対人戦において重要となって来るのは、彼我の魔力差をどう埋めるかだ。最低限のマナで、最高の結果を出すことが求められる。


〈魔弾〉は、物にぶつかれば破裂する性質を持つ。


『だから、相手が〈魔弾〉を使ったらむしろチャンス! 相手よりも少ないマナをぶつければ、収支はこっちがプラスになるから』


 親友の天の言葉を思い出しながら最低限の質力で飛び出した純白の弾丸が、見事、黒い塊を捉える。すると絶大な威力を誇る〈魔弾〉が、優の数メートル手前で破裂した。


 衝撃が二食前のエントランスを満たし、階段前広場に続くガラス張りの扉を破壊する。シアが目を庇いながら身を低くして衝撃に耐える一方、より爆心地に近い位置に居た優は地面にナイフを突き刺すことで吹き飛ばさないように耐えていた。


 他方マエダは、100㎏を優に超える体重でもって衝撃を受け止めつつ、再び優に向けて拳を振り下ろす。体勢がまだ整わない優は無理に反撃せず、後方に退避することで拳を避けた。さらに優に追い打ちをかけようとしたマエダの顔面に、シアの〈魔弾〉が命中する。精神的に復調した今のシアが使用する〈魔弾〉は、マエダにとってもきちんと脅威になっていた。


「だぁっ! 面倒くせぇなぁ! 殺すぞ、シア!?」

「あなたこそ! どうして私を狙わないんですか!?」

「知るか! ただ、お前を攻撃したくねぇ。それだけなんだ、よっと!」


 シアに目を向けて隙を見せていたマエダに対して、優が投てきした透明なナイフ。常人であれば視認できず、確実に命中しただろうナイフは、魔人であるマエダには通用しない。魔人や魔獣は常に漏出するマナが魔法的な触覚となり、大雑把だが“何かが飛んできている”という感覚を得られるからだ。


 目には見えないナイフを軽く手で払おうとしたマエダ。しかし、鬼のようないかつい顔が、わずかに驚愕に染まる。マエダの強靭な皮膚を裂いて、優のナイフがマエダの腕に刺さったのだ。


 ――おいおい、マジかよ。シアの攻撃ですらちょっとイテェだけなのによ。


 ホッチキスの芯が刺さった感覚にも似た、小さくも確かな痛みに、マエダが顔をしかめる。


 魔法の強度は、使用者のイメージに由来する。魔人に傷をつけられる。その事実が意味するのは、魔法の使用者である優が、魔人を本気で、心の底から、倒すことができると信じている証でもある。しかも、天人や魔力持ちでもない、ただの一般人が、だ。


 果たして人間だった頃の自分は、自分よりもはるかに強大な膂力と魔力を持つ相手を前に、勝利する想像が出来たのだろうか。考えようとした自分を、マエダは一笑に付す。そんな考えに意味は無いし、そもそも、今の自分には人間だった頃の記憶など、てんで残っていないのだから。


 ――特派員全員がこうなのか。それともユウが特別なのか……。


 いずれにしても、やはり特派員は厄介な存在だと、マエダは警戒を強める。眼球が黄色く染まった眼の先では、優とシアが合流を果たしていた。


「どうですかシアさん。イメージは、できそうですか?」


 シアを背にかばうようにして武器を構える優に、きゅっと眉を寄せたシアが大きく1度、頷いて見せる。


「はい! 優さんの魔法は……想いは、あの魔人さんに届きました。であれば、優さんなら必ず、あの魔人さんを倒せます」


 言いながら目を閉じたシアが、全身から白いマナを溢れさせる。祈りをささげるかの如く、胸の前で組まれた指。極限の集中状態で、シアはたった1つ、望む未来を夢想する。


「それは奇跡の軌跡。人の身で理不尽に立ち向かう未来変革の旅路。名も無き者。名もなき英雄。歴史に名は残らずとも、われの者の行く道をたどり、ここに記さん――」


 やがて、シアが再びその紺色の瞳が見開かれた時。


「――〈物語〉」


 シアが信じる“主人公”が強大な敵をほうむる。そんな物語が幕を開ける。

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