第4話 それでも
結局、
今のところ、ハエの魔獣に動く気配はない。ただ、耳障りな音を立てながら浮遊している。ただそれだけというのに。
――格好悪いな……。
優の足は震えていた。魔獣という死の恐怖を前に、足が、全身が言うことを聞かない。
優が魔獣と闘うのは先週に続いて2度目だ。魔力から考えて、個体としての強さは恐らく前回シアと共に戦った2体の方がはるかに上に違いない。群れを成せばハエの魔獣も脅威になるだろうが、今は目の前の1体だけしかいない。
――だから、大丈夫。大丈夫だろ……っ。
そう、優が自分に言い聞かせてみても、震えは消えない。
優はまだ、自分がこの手で魔獣を倒したことなどないことを知っている。前回、魔獣を倒したのはシアと、教員であり正規の特派員でもある
このままではいざという時に動くことが出来ない。目の前に居るのはハエのような魔獣だ。実際は、ハエを捕食した動物が変足したものだと考えられるが、いずれにしても、素早く、機敏な空中移動が可能だということは分かる。
――動け、動かせ。
優が手足に命令しても、全く言うことを聞かない。そうして生まれる焦りや恐怖、不安、冷や汗が雨と混ざり、身体を冷やす。そうなると、体がさらに動かなくなっていく。その悪循環だった。
今なら、シアがイノシシの魔獣の突進を前に体を硬直させた理由がわかる気がする優。実際には、シアは自責にとらわれて動けなかったのだが、優は彼女が恐怖で動けなかったのだと今でも思っていた。
――本当に、あの時の俺はどうかしてたんだな……。
そうしている間にも、魔獣はゆっくりと優に近づいている。それでも優の体は動かない。極度の緊張状態。羽音はもはや聞こえず、優自身の心音だけが鼓膜を叩く。
視界も恐ろしい程鮮明で、羽ばたき含め魔獣の動きが全て見えている。全身のしわが伸び、小さかった口が人の頭を飲み込めるほど大きく広がって行く、その過程も優の視界はきちんと捉えることが出来ている。
命の危機にある。
思考もまとまっていて、逃げるべきだと正しい指示を出している。けれども、優の体は動かない。
開いた魔獣の口が、もうすぐ優の視界を覆いつくす、その時。優の体の中を、マナの波が通り過ぎていく感覚がある。〈探査〉によって生じたマナの波が優の身体を通り抜けて行ったのだ。
――白いマナ。……シアさんか!
その透き通った真っ白なマナが自分と、口を開けてゆっくりと迫る魔獣を通り抜けていくのが優の視界の端に映る。
シアが近くにいる。マナは背後から来た。恐らく自分よりも遠く飛ばされ、外地のより深い場所にいるのだろうと、死を目前にして加速する優の脳が状況を把握していく。
――もし俺がここで食べられてしまったら。
優の脳は勝手に“その先”を考える。自分を食べた魔獣は次に、シアを、やがては天や春樹を、家族を食べるのだ。しかも彼ら彼女らを襲う時には、優という人間を食べて魔法を使えるようになっている可能性が高いだろう。
自分よりも強く、優秀な天たちであれば、魔獣をあっけなく倒してしまうかもしれない。しかし、もしそうでなかった場合。彼らも食べられてしまう。死んでしまう。なぜなら、自分が魔獣を前に格好悪く震えて、ここで食べられてしまったから。
――それは、それだけは許せない。
優の指先がピクリと動く。
優は憧れているのだ。例えば、天才で可愛い妹、天に。幼馴染でいつでも頼れる兄のような春樹に。力があるからこそ全てを自分のせいだと背負い込み、それらを解決できる力を求めて努力するシアに。魔獣という脅威から優と天を守り、育ててくれた両親に。今も知らないところで魔獣を倒し、人々を守っている特派員――ヒーローに。
もう子供の頃のように無邪気に、自分がヒーローのようになれると優は思っていない。さんざん笑われ、馬鹿にされ、無理だろうとも、恥ずかしくないのかとも言われた。
――でも、それでも。
優は人々を守り、誰かに誇ってもらえるような、そんな格好良い人間になりたいのだ。力不足をわかってなお、憧れることだけは止められず、優は今、こうしてここにいる。そんな自分が、弱さゆえに、誰かの迷惑になっていいはずがない。優にとって自分が弱いことで迷惑をかけることは、あまりにも格好悪いことのように思えた。
今、自分は魔獣を倒さなければならない。
――自分と、そして大切な人たちを守るために。
そうして芽生えた使命感が、優の身体に火を灯す。
気づけば全身の震えが止まり、目の前には無防備な魔獣がいる。この魔獣は逃げ去る相原にも、シアの強力な〈探査〉にも反応しなかった。恐らく、何を感じ取っても逃げないだろうというのが、優の予想だ。
蛇の魔獣を倒した余裕だろうか。あるいは、空腹からか。どちらにしても、優にハエの魔獣が見せている隙を逃す理由はない。〈創造〉で創り出した無色透明なサバイバルナイフを静かに、無防備な姿で口を広げる魔獣へと振り上げる。
『大切な人を守るために、魔獣を殺す』
そんな強い意思を込めて。すると、どうだろうか。
魔獣に刃が触れた瞬間わずかな抵抗があったが、それだけだ。サバイバルナイフは優のイメージ通り、いとも簡単に。ハエの魔獣を二分したのだった。
「ふぅ……、ふぅ……」
荒く息を吐く優の目の前に、ドチャドチャと音を立てて落ちる肉塊。しばらく脈打ったままだったハエの魔獣の残骸もすぐに拍動を止め、しばらくすると黒い砂になり始めた。
魔獣を倒した。その事実を噛みしめたい優だが、今ではないと気を引き締める。すぐに〈探査〉を使って、近くにいると思われるシアを探す。優の〈探査〉できる範囲は広くない。危険だが魔獣の居所を探りつつ後方、東側――内地から離れるように移動してシアを探すこと少し。
――よし、見つけた。
ようやく、大きい魔力を持った人物の反応があった。状況から見て、間違いなくシアだろうと優は判断する。内地側から魔獣が来ていることもあって、幸いまだ彼女の周囲に魔獣はいない様子だ。
シアのもとに急ぎつつ、優は相原の反応が無かったことを気にかける。〈身体強化〉を使って全力で逃げたのか。それとも……。
先ほどの〈探査〉で相原が逃げた方向に、少し魔力が高くなった魔獣が数体集まっていた。
「まさか、な」
魔獣同士の共食いであることを願いながら優が走ること10秒ほどだろうか。彼の目は、木々に囲まれて周囲を警戒する容姿端麗な黒髪の天人、シアの姿を映したのだった。
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