いよいよ差し迫った危機



「ゴキブリ?」


 あっ、まずい。これは、理論家ナンブツに、つけいる隙を与えた?


「ゴキブリとは」と、ナンブツが顔を斜めにアゴを上げている。


 心のなかで、明らかにほくそ笑んでいる顔だ。


 その言葉を無視して、いちおう周囲を確認した。なんかヒントがね、この場合、ゴキブリ扱いした夫からの反撃をかわす方法が落っこちてるかもって。


 夫が被害者コスプレする前にって、長い結婚生活の知恵みたいなもんを叩きこまれてんで。

 あうんの呼吸で次の展開が読めるわけ。


 で、とりあえず、時間を稼ぐために……、


 わたし……。わた……。わたしは……。


 逃走した。


 もうオリンピック走者かってくらい走った。なんなら、50メートル10秒は切ったと思う。


 リビングから廊下、玄関口まできて外への扉が目に入った。

 この先に光輝く世界がある、かもしれない。


 鈴木アイコ、39歳。アラフォー崖っぷち。


 トトトントン!

 ドアを開ける。

 未来は1メートル先だ。


 この時に都合よく思い出したんだ。

 最近、よく読むラノベ。異世界転生とか転移とか、そういう話が多いじゃない。


 だからさ、マンションの五階に住んでいるから。微妙に危ない高さで、こっから落ちたら、あるいは異世界に転生できるかもしれないって。


 悪役令嬢とか、貴族のお姫さまとか、いっそ勇者とか、ナンブツとの退屈でムカつく結婚生活から逃げて、そんなんにって。ちょっとばかり転生して第二の人生って。


 うん、ありだ。

 いまこそ、その時だ。


 異世界への扉に向け、外廊下に出た。

 目の前に広がる未来に向かって、手すりから階下をのぞいた。コンクリートの塊に向かってダイブするかって。


 したら、何の手違いか、近所のおじいさんと目があっちまった。

 たぶん、日曜日だから出てきた暇なおじいさん。でも、五階だから。


 挨拶すべきか無視すべきか非常に迷う。こっちは決死の覚悟で異世界に行きたわけで。

 ここは無視案件か。


 いや、こう言う時ほど、自分の小市民さがわかるよね。

 わたし、顔見知りのおじいさんに微妙な目線であいさつしてから、5階から異世界の道をどうすればって考えた。



 と、ドアが勢いよく開いた。


 ナンブツが顔を出す。その顔は予想とはちがった表情だ。なんか緊急事態を告げているようで、妻を異世界に送りたいって顔じゃない。不測の事態が起きているのだ。


「太郎が吐いてる」と、夫が言った。


 太郎とは中学二年の息子で、思春期まっさかりの、くっそ生意気な子どもだ。

『大きくなったら、ママと結婚する』って、うるうる目で言ってから、過ぎた5年。変節した。前言ひるがえし捲ったナンブツの息子。


 順調に第二のナンブツ人生を歩き始めている。


「実家から連絡があった。吐き続けているそうだ」

「何を食べたの」

「ともかく、実家へ行く」


 ま、そんなわけで、離婚危機と異世界と離婚届を胸にしまったまま、実家に向かうことになったのだ。




 夫の実家は臨戦体制だった。太郎だけでなく、年子で生まれた次男の花雄も、ついでに義父も、腹を猛然と壊していたのだ。

 生き残っているのは姑だけ。


「どうしましょう、どうしましょう」


 日頃は品が良い義母が、オロオロしてスマホを抱えていた。こちらに連絡してから、ずっとスマホにすがっていたようだ。


「な、なにを食べたんですか」と、聞くわたしの声をさえぎるように、トイレを叩く次男。

「にいちゃん、もれちゃう。早く出て!」

「ムリだ」

「兄ちゃ〜〜ん」

「あきらめろ、ウヲー!」


 非情な声に次男が絶望的な顔でこちらを見た。お尻あたりを両手で支えている。


 いや、母ちゃん、そんな心がまえ、ないから。この状況に対処できる、どんな手立てもないから。

 ただ、頭の中をよぎっているのは、ここが自宅でなくてよかった。それだけだ。

 うん、漏れても、人ん


「母ちゃ〜〜んちゃんちゃんちゃん」


 次男、情けなくも力のない声を振り絞って訴えかけてくる。


 クッソ、ババアって罵倒したの、確か三日前だったよね。学用品を買い忘れて、それで母親に当たり散らした、あの勢いはどこへ行った。

 思春期まっ盛り第2号の次男。花雄、13歳。

 長男に先を越されて13年。

 今、トイレ争いにおいて、まさに負けた。いさぎよく、そこでしてもいいぞ、何度も言う、ここは自宅じゃない。


「アイコさん。まあ、どうしましょ、どうしましょ」


 姑ったら、涙目だ。

 わたしの数倍はキレイ好きの、潔癖夫を育てた潔癖主婦。そりゃ、困るな。孫2号の後ろにしゅうとも青ざめているから。


「あのね、アイコさん。きっと、アレがダメだったのよ。アレよ」

「そうですね。アレですよね」

「それでね、ここは大変だから、孫たちをお返ししようかと思って」

「いえいえいえ、それはその、アレですから。子どもたち、おばあちゃんの家を楽しみにしておりますから」


 ダメだ。ここで押し付けられたら、たぶん、家まで持たない。自動車内での大惨事は目に見えている。


 ぜったいダメだ!


 ふと、中原中也の有名な詩を思い出した。


『汚れちまつた悲しみに

 なすところなく日は暮れる……』


 いや、全世界中原中也のファンさま、ご、ごめんなさい。


 日を暮れさせてはアカン状況だったしで。

 わたしはナンブツを見た。ナンブツもこちらを見た。そして、ふたりの視線は、なぜか同期してゴミ箱に向かった。


「花雄、ここにしろ!」


 ナンブツ、珍しくパキパキと動き、ゴミ箱にビニール袋をいれた。

 おお、素晴らしい。

 花雄、緊急事態にもかかわらず、涙目でささやいた。


「ム、ムリ」

「いや、恥ずかしがってる場合じゃない。戦後は」と、舅がなんといきなりズボンを下ろして手本を見せようとした。


 うっわ!!


 結婚後、わたしは、はじめて義母と手をしっかりと取り合った。女どうしの直感が告げていた。


「お父さん!」と、姑は叫び。

「待った!」と、わたしが付け加えた。


 声が完璧にハモっていた。


(つづく)

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