寺の鐘が大きく鳴った。
「
ナンブツ先生の顔に、とまどいと同じくらい、怒りの表情が宿っている。感情を表に出さない彼には珍しい。やはりとわたしは思った。
これが急所なのだ。ついに、彼をリングに引き上げた。いや、上げてしまったと言うべきか。
グゴオンオンオン〜〜ォン。
再び明法寺から鐘が鳴る音が聞こえてきた。
今回はかなり大きな音で、力一杯についた音の響きだ。全く、はた迷惑な観光客が多い。
「論拠のない一方的な主張は、いますぐやめなさい。犯罪者は大抵、つらつらと自分の都合の良い事例をあげ、負けそうになると中傷に
「犯罪者とは、それこそ名誉毀損です」
「僕をマザコンと中傷する君の態度は、まさしく追いつめられた犯罪者と同等だ。また、マザコンと決めつける、その論拠も乏しい。また、マザコンとは差別用語であり、仮にもコンサルタントである君が使うとは情けない」
「ほっほっほっ」
わたしは顔を引きつらせながら笑った。
「マザコンをマザコンと呼んで悪いなら、『母親からの乳離れに不自由した男』と言い換えたら良いのですか」
「そういう話ではないだろう」
「では、どういう話ですか」
「君の主張は裏付けが乏しい。そのことはさておき」
「さておかない」
わたしたちは再び、この日、何度目かの対峙した。
その瞬間、なぜか、不意打ちのように、カウンセリングで来た女性の顔が頭に浮かんだ。専業主婦で、穏やかな話し方に品の良さが滲み、どことなく守ってあげたいと思わせる小柄な女性だった。
「疲れましたの。子どももおりませんし、このまま老後を夫と過ごすことを考えますと」
途切れ途切れに話す彼女の言葉に、
「主人の帰宅時間が近づいてくると、どんどん血圧が上がっていきますような、なんだか、変になりますの。おかしいですわね。わたくし、おかしいですわ」
小柄で色白の、50歳過ぎというが、まだ、40代でも通る。
彼女の相談は、おきまりの夫の浮気問題だった。
ドラッグストアを経営する夫は海外を行ったり来たりの生活で、自宅に寄ることは少ない。話を聞けば聞く程、呆れたオレ様夫だ。彼女に肩入れせずにはおれない気持ちは、ナンブツ先生に対する日頃の
いや、絶対にある。
わたしだって、パジャマ姿でふんぞり返るこのオレ様夫を、ひねり潰してゴミ箱に捨てたいと何度思ったことだろう。子ども達のためにと我慢した回数など、自分でも思い出せない。
しかし、その子どもたちも成長した。もうすぐ高校生だ。独り立ちしても、よかろう。
「オレの言うことがわからんのか」と、奴は低く唸った。
わからんわ! と心中で悪態をつきながら、なんという男だと思った。よくまあ、こういう男性と生活して我慢に我慢を重ねることができた。
我ながら尊い。
離婚だ、ぜったいに離婚しかない。その決意を見計らったようにスマホが鳴った。
睨みあったまま、わたしはスマホを取るべきか、取らざるべきかという問題に直面した。敵に背中は見せられない。しかし、スマホは一向に鳴り止まない。
微妙な空気が入った。
今、選択肢はスマホを取らずに後で相手方に言い訳するか、ナンブツに背後を見せるか、どちらかのリスクを選び取らねばならない。
ナンブツもそれは分かっている。
奴はスマホに向かって顎を上げた。わたしは彼から怒りの目を離さず、音に集中して手探りでスマホを取った。
「もしもし」
声が上の空になったことは仕方がない。
「ねえねえ、聞いた?」
あっけらかんとした声。
怒りに爆発しそうな状況に、この能天気な声は長男の学校で知り合ったママ友だ。
「ごめん。今、ゴキブリ退治のまっ最中で」と、応えた。
『ええ、まあ、ほんと? こんな時期からゴキブリなんて。ありえないわね。大変よね』
「緊急事態だから、また、後でかけるわ」
『声が裏返ってるわよ。ゴキブリ、でっかいの?』
「でかい! むっちゃでかい!」
電話が切れた。
「ゴキブリ?」
ナンブツが聞いた。
(つづく)
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