19――二度目の巣立ち
あれから俺は普段と変わらない日々を送っていた。学校に行って、放課後は図書館で千佳ちゃんと勉強したりなおとふみかと遊んだりした。
千佳ちゃんにはお土産を渡した時に東京へ行く事は伝えた、急に図書館に来られなくなる可能性もあったからだ。すると千佳ちゃんからも驚くべき打ち明け話を聞かされた、なんと千佳ちゃんが中学受験にチャレンジする事になったそうだ。
「今年担任になった先生から勧められて、親がその気になっちゃってね。確かにすみれちゃんと勉強し始めてから勉強のコツがわかって、成績がすごく上がってたし。ダメ元で受けてみようっていう事になったの」
受かった場合は隣県の学校に通う事になるらしく、俺は素直に頑張れという気持ちを込めてエールを送った。勉強は出来ないよりは出来た方が絶対いいし、出た学校によって選べる将来の選択肢は格段に広がる。例え不合格だったとしても、中学受験に挑戦したという経験は彼女にとっては絶対に無駄にならないだろう。失敗したという経験がトラウマになる可能性だってあるけれど、楽天的な千佳ちゃんならその経験をプラスにしてくれるのではないかと思う。
お互いに頑張ろうとエールを送り合って、千佳ちゃんと笑い合う。これまでは図書館に来れば会えていたからしていなかった連絡先の交換をして、その日はお別れした。千佳ちゃんの未来が幸多くあればいいなと、本当にそう思った。
6月も半ばになると俺の周囲もなんやかんやと慌ただしくなった。東京へ引っ越す日程も8月第一週の水曜日と決まったので、母と一緒に学校に出向いて先生に事情を話した。今年の担任である神田先生は、1・2年生の頃は隣のクラスの担任だったので当然の事ながらそれなり以上の面識はある。最初はにこやかに迎えてくれた神田先生だったが話が進むにつれてびっくりの連続だったらしく、『し、少々お待ち下さいね』と言ってから席を立った。
応接室で待たされてしばし、戻ってきた神田先生はなんと前担任である木尾先生を連れてきた。なんだか興奮した様子で、対面のソファにふたりして腰掛ける。
「えっ、本当なの? 今神田先生に聞いたんだけど、すーちゃん芸能界に入るの?」
「芸能界に入れるかどうかはわからないけど、スカウトされて東京に引っ越すのは本当です」
俺がそう答えると、何故だか先生たちがキャッキャとはしゃいで『すごーい!』とか『サインもらっておかなきゃ』とか言っている。こんなにミーハーだったっけ、この人達。
「でもすーちゃんなら納得かな。礼儀正しいし受け答えも大人と同じ様にちゃんとできるし、芸能界とかテレビに映る仕事には向いてると思う」
「そうね、松田さんはしっかり者だからね」
そんな事を言っていた先生達だったが、急に木尾先生が表情を曇らせた。何事かと怪訝な表情を浮かべる母と俺に、声を潜めながら木尾先生が聞いてくる。
「でも本当に大丈夫なんですか? スカウトってちゃんとしたのもあれば、嘘のスカウトで女の子によからぬ事をするっていう事件も起こってるじゃないですか」
その質問を聞いて、今その可能性に気付いたとばかりに俺を見る神田先生。しかしこの神田先生の反応も仕方ないのではなかろうか。この時代ではそういう事件を表沙汰にしない事例が多かったし、ネットなどが存在してないのでリアルタイムで情報が共有されていないのだから。
心配してくれるのはありがたいが、今回はちゃんと信頼できるところからの話だから大丈夫だと母が説明するが、それでも先生達はまだ不安そうだ。仕方なく俺は大島さんの名前を出して、お世話になるのは彼女のところである事を説明すると、再びミーハーモードに突入する先生達。
なんとかそれをなだめて、当日まではクラスメイト達に言わない様にお願いして報告を終える事ができた。手続き的にはまだ母が後日記入しなきゃいけない書類などがあるらしいが、俺がする事はこれで終わりだ。とは言ってもまだ転校先の学校に挨拶に行く必要があるので、やる事はあるのだけど。
そして7月のはじめの方に、はじめて転校先の学校を訪問した。担任になる予定の先生は女性で、なんというかクールでデキる感じの先生だった。一緒に大島さんも着いていってくれたので、説明が簡単に済んだのが非常にありがたかった。やっぱり東京の人達は街中で芸能人を見掛ける頻度が高いからか、大島さんがいてもサインや握手を求められる事はない。もしも順調に子役として仕事ができるようになった場合は、色々と便宜を図ってくれるとの事なので安心だ。
もちろんその後に、大島さんのところにも改めて伺って、トヨさんや運転手の人達にも『よろしくお願いします』と挨拶した。残念ながら寮生の人達は学校だったり仕事だったりで会えなかったが、大島さんが経営しているプロダクションのマネージャーさんとは顔合わせする事ができた。前世でいうアラサーぐらいのキャリアウーマンという感じで、パンツスーツにビシッと身を包んだ安藤さんという女性だ。
他にもふたりの担当のタレントを抱えているそうで、俺に挨拶すると安藤さんは慌ただしく仕事場へと向かっていった。彼女の持っていた手帳の中身がチラッと見えたけど、スケジュールが真っ黒けだったから相当に忙しいのだろう。どうかこれからお世話になる俺のためにも、体を大事にして頂きたい。
出発の二日前、ずっとお世話になっている裏のおばちゃんから『送別会をしてあげる』と誘われて、夕ごはんを兼ねてふた家族で集まる事になった。もちろん我が家は狭いので、広いおばちゃんの家を会場として提供してもらっている。
残念ながら姉は頑なに参加しないと母に訴えたらしく、母が別に夕食を作って置いておいたらしい。おばちゃんに母がそれを愚痴ると『月坊にも困ったものねぇ』とため息をついていた。
何故か誕生日の時ぐらいしか食べる機会がない大きなケーキがドーンとテーブルの中心に置かれていて、その周りに色々なおかずが乗った皿がいくつも並べられている。更に不思議な事にケーキの上に立てられたロウソクの火を消すように促されて、俺は頑張ってふた息ぐらいでなんとか全部の火を消し切る。それが合図になって、大人たちはビールの入ったコップを『乾杯』なんて言いながらぶつけ合う。
まーくんのおじいちゃんとおばあちゃんからは体に気をつけるように言われて頭を撫でられ、おじさんとおばちゃんはお祝いと称して分厚い封筒を渡そうとしてきたが、両親と一緒になんとか固辞する。もしかしたら中身は現金ではないのかもしれないが、これからのご近所付き合いを考えるとすんなりと受け取れる物ではない。もしも中身が札束だとしたら、おそらく300万円は下らないのではないだろうか。
「すー坊は私達の娘も同然なんだから、遠慮なく受け取ってよ」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、さすがにこれは受け取れないわよ」
おばちゃんが諦めずに母と押し問答を繰り返しているのを見て、俺はこれ以上巻き込まれない様にまーくんのそばに避難する。声を掛けようとまーくんを見ると、何やら顔色がすぐれないというか、どうも表情が暗い感じがする。何かあったのだろうか。
「まーくん、どうかした? お腹痛い?」
顔を覗き込む様にしながら俺が尋ねると、まーくんは何故か俺から顔を逸して『なんでもない』とぶっきらぼうに返してくる。なんとなく逸した顔を追いかけてもう一度覗き込むと、まーくんは『やめろよ』と言いながらトンと俺の体を強めに押した。軽い俺の体はそれだけでたたらを踏んで、それでも勢いは止まらずにぼてんと軽く尻もちをついてしまう。
お尻は全然痛くなかったけど、いつもは優しいまーくんが何故こんなにご機嫌ななめなのか、そっちの方が気になった。なんだかバツの悪そうな表情をしたまーくんは、俺の腕を持って引っ張り起こすとそのまま俺の手を握って玄関へと早足で歩く。
「ち、ちょっと。まーくん、はやい」
現在6年生のまーくんと3年生の中でも小さい方の俺では歩幅が大分違うので、引きずられる様になりながらなんとか靴を履く。そして庭を横切って門から出てもまーくんの勢いは落ちる事はなく、ようやく止まった頃には俺は肩で息をしなきゃいけないぐらいハァハァと息切れしていた。
「すー坊ごめん……何か飲むか?」
いつの間にか近所の駄菓子屋さんのところまで来ていたみたいで、まーくんは俺の手を放すと自動販売機の前でそう聞いてきた。でもまだ息の整わない俺は返事ができなかったので、まーくんは100円玉を投入するとボタンを押した。続いて自分の分なのかもう1回ボタンを押して、取り出し口から2つの缶ジュースを取り出す。
手渡されたのはオレンジジュースだった。喉が乾いていたのでありがたく受け取って、プルタブを開ける。本当なら炭酸ジュースの方が気持ちがいいのだろうけど、前世では1.5リットルのコーラもどんとこいだった俺だが、現世では性別が変わったからなのか他に理由があるのかはわからないが炭酸がほとんど飲めない体になってしまった……コーラ好きだったのになぁ。
こくこくと喉を鳴らして飲むが元々食が細い俺だ、半分も飲まないうちに満足してしまう。いいや、持って帰って家の冷蔵庫で冷やしておこうとか考えていると、正面に立っているまーくんが何やら意を決した様にこちらを見た。
「すー坊、本当に東京に行くのか?」
「ん? うん、明日は役場に転出届を出しに行くし」
唐突な質問にきょとんとしながらも返事をする、すると突然まーくんが俺の腕をぐいっと引っ張るから、持っていたオレンジジュースの缶が手から滑り落ちてしまった。ああ、もったいない。
カランカラン、と缶が地面とぶつかる音がすると同時に、俺はぽすんとまーくんのみぞおちのあたりに軽くおでこを打ち付ける。ってこれ、まーくんに抱きしめられてないか?
「……行くなよ、行かないでくれ」
一体なんでこんな事を、と頭の中でぐるぐると疑問がめぐる。理由はわからないけど、よく知ってる幼なじみのまーくんだからこんな風に何も感じなくいられてるんだろうな。まったく知らない他人の男に、心の準備もなくこんな風に抱きしめられたら拒絶反応で急所蹴りする可能性まである。
呟かれた言葉から察するに、多分寂しいんだろう。兄貴分として俺に良くしてくれるまーくんとはいえ、まだ小学6年生。そこに当たり前にいた誰かがいなくなるという経験をした事がないから、ほんの小さな頃から一緒にいた俺という存在が自分の周りから欠ける事が寂しくて不安なのかもしれない。
「まーくんはさ、将来やりたい事ってある?」
「……いや、別に。なんとなく親父みたいに働きながら農業やるんだろうなとは思ってるけど、やりたい事はないな」
「それはね、まだやりたい事を見つけてないんだよ。わたしはこの間東京に行って、これだってモノを見つけたから。だから行かないって選択肢は選べない」
俺はだいぶ高い位置にあるまーくんの顔を必死に見上げて、そう言い切った。しばらく見つめ合う様にじっとお互いの目を見ていたが、根負けした様にまーくんが目を逸らす。勝ち負けじゃないけど、なんだか優越感を感じる。すると俺の考えが読まれたのか仕返しの様にぎゅうぎゅうと抱きしめられた。やめてやめて、中身が出る。
やっとの事で解放されて、俺は恨めしそうにまーくんを睨む。でもなんだか途中から笑いがこみ上げてきて、ふたりして小さく吹き出して笑い合った。そして空き缶をちゃんとゴミ箱に捨ててからまーくんの家に帰ろうと、ふたりで並んで歩き出した。数歩進んだところで、隣を歩くまーくんに『すー坊』と呼びかけられる。
「俺もやりたい事を見つけられる様に、色々やってみる。そして見つけた時には、俺の話を聞いてくれないか?」
話したい事があるなら今でもいいのに、と思いつつも何やら真剣な表情のまーくんに茶々を入れるのはためらわれて、こくんと頷いた。まーくん家に着くと、まーくんがおじさんおばさんに何やらちょっかいを掛けられていた以外は特に叱られたりもせず。俺の送別会は穏やかに幕を閉じた。
その2日後――俺はなおやふみか、まーくんやその保護者達に見送られながら、母と一緒に最寄り駅を発った。
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