第六十六話 名づけえぬもの(26)
「こいつは、カスパー・ハウザーは、あえて攻撃を誘っている!」
「確かに、なんか怪しい気がするね」
バルトロメウスが応じた。珍しくズデンカの言葉に素直に従い、ハウザーから距離を作って動きを止めた。
「ルナ・ペルッツ。しょせん君は半端者だ。どこに行ってもうまくいかない。本を書いたとしてそれは人の話を書き取るだけで、自分の物語を作れはしない。女なのに男のような格好をして歩き回っている。常に未完成で逃げて逃げて逃げ続けてばかりだ。そんなやつが、本当に幸せになれると思うか?」
非常に落ち着いた調子でハウザーは喋り立てた。
だがその言っている内容は――ズデンカからみれば――醜悪極まりないものだった。
おそらくはルナを挑発しているのだろう。
ルナが怒れば自分に対して攻撃が向く。それを受けて、『名づけえぬ者』になろうとしているのだろう。
だが。
「あなたの言っていることは正しい。しょせんわたしは半端だ。何者にもなれないのだろう。でも、生きて、ここにいる。呼吸をしている。いつか自分の命が終わった後に、墓碑にはこう刻んで貰いたい。『ルナ・ペルッツは人間でした』と、男でもなく女でもなく、わたしがいた。それでじゅうぶんだ」
ルナはとても穏やかな――優しいぐらい穏やかな表情でハウザーを見詰めていた。殺気まであれほど怯えて自分のうちに閉じこもっていたルナが。
反対にハウザーの顔はだんだんと歪んでいった。
「そうか。じゃあ、ここで死ねよ」
ルナを攻撃しようとするハウザー。ズデンカはルナの前に走り出てそれを受け止めようとした。
その時。
「ハウザーさま!」
叫び声が上がり、ハウザーの近くまでヨロヨロと近付いて来た影があった。
紫の髪の小柄な姿。
ルツィドール・バッソンピエールだ。
閉じ込められていた宿から逃げ出してあちこちハウザーを探し回り、やっと見つけ出したという体だ。
「ハウザーさま! 私にやらせてください! ルナ・ペルッツなど、すぐに殺せます! さあ、さあ!」
ハウザーの前にで両腕を広げ、自分をアピールするルツィドール。
しかし。
ハウザーは腕を一振りして、ルツィドールを瓦礫のなかへと吹っ飛ばした。
「お前は、要らないと言っただろ!」
「ハウザーさま、ハウザーさま」
這うようにハウザーの元へ縋り付いてくるルツィドール。
「黙れ」
ハウザーはその頭を蹴りつける。
「ハウザーさま、好きです……ハウザーさま」
鼻地と涙で顔を溢れ返らせながらルツィドールは言う。
本人の言っていたことが事実なら、ルツィドールに頼れる者はハウザーしかいない。たとえ、足蹴にされようがその元を離れたくないのだろう。
ハウザーの様子には目立って苛立ちが見え始めた。
ルナは対称的に落ち着いている。
だが、かといって勝負に勝ったわけではない。
下手に攻撃を食らわせる訳にもいかず、ズデンカは身動き出来なかった。
「わたしはもう、あなたとは戦わないよ」
ルナは静かに言いきった。
「戦わない? じゃあ、この街が滅ぶのを勝手に見ているんだな!」
ハウザーはルツィドールを遠くへ蹴り上げると、ルナを睨み付けて言った。
「ただ、あなたを消すだけだ」
そう言ったルナの身体が、黄金色へと光り始めた。
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