第六十六話 名づけえぬもの(20)
――ルナにどう言う風に語り掛ければいい?
ズデンカは迷った。
ルナは生きることを畏れている。
罪を背負ったまま生きることを。
それはハウザーのドードー鳥内部の深淵で確かめたことだ。
つまり、ズデンカはルナに生きる希望を与えなければならない。
人生は生きるに値するものだと。
――与えられるわけがない。
ズデンカは既に人であることを止めて久しい。
そんな存在が、生きることは楽しいよ謎と言えるだろうか。
まず、言えない。
言えたとしたらそれは嘘になる。ズデンカは嘘は言えなかった。
じゃあ、そのままそうしていろとも言えない。
――お前のせいで世界は危機を迎えている。だから、それを止めろ。
ぐらいなら言えるかも知れない。
だが、今のルナがそれを受け入れてくれるか。
頭では自分がハウザーに操られていることは理解しているだろう。だが、本人に強く逆らう気持ちが起きない限り、そこから抜け出せない。
ハウザーもルナにそんな気がないことを十分見抜いた上で、長いこと泳がせていたのだろう。
ズデンカがルナに何も影響を与えられないとたかを括って。
――ルナ。
ズデンカはルナを想った。でも、どれだけ想っても、それだけでは伝わらない。
いや、この繭の中にあっては、もしかしたら何か伝えられるかも知れない。
だが、口に出して言わないと、伝わらない気がした。
――ああ、もどかしい。
「ズデンカさん、進みますよ」
メルキオールの声は降りてきた。
「わかってる」
ズデンカは進んだ。裸足でしっかりしっかり踏みしめるように。
床も糸で蔽われたようになっており、歩く度にざらざらとした触感が伝わる。長らく靴で歩いてきたズデンカにとっては、新鮮な感触だった。
――やわらかいな。
やがて道は行き止まりになった。
ルナが見つかった。ルナもまた裸になって、行き止まりの壁に磔になっていた。
目を瞑っている。
眠っているのだ。
――いや、寝たふりだ。
この空間はルナの意識の中に繋がっている。なら、起きているに決まっている。
「ルナ」
ズデンカは声を掛けた。
ルナの瞼がピクリと動いた。
やはりだ。ルナはズデンカが来たことを気付いている。
「帰ろうぜ」
「いやだ」
ルナは目を瞑りながら答えた。
「ここにいたままだったら、ろくでもないことになる。わかってるだろ? それぐらい」
「だとしたら何なんだ。もうこの世とかどうでもいい。ここ、ふかふかで気持ちいいんだよ」
「それはまやかしだ。遅かれ早かれ夢は覚める。お前は現実を知ることになる」
酷く抽象的な言い方だ。ズデンカは我ながらしくじったと思った。
「現実なんてどうでもいい。そもそも、わたしの旅は逃避だった。
「お前のその楽しさはわかる。だから、わざわざ付き合ってきてやったんだ!」
ズデンカは声を荒げた。綺譚蒐集はまったくルナの望むところだったのだが、ズデンカもだんだん奇妙な出来事や人の話を訊いたりすることが楽しくなってきていたのも事実だった。
「あたしは旅を続けたい。お前と」
ズデンカは言った。胸が張り裂けそうだった。
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