第六十四話 深淵(7)
ハウザーは一歩も動いていない。
むしろ、悠然と立ち尽くしている。
胸を裂いて、心臓となっているカスパールをえぐり出すのは容易なはずだ。
だが。
ルナが庇うように素早く回り込んできた。
――こんな時だけ早い。
やはり、能力を使って足の速度を上げたのだろう。
ズデンカは寸前で退避していた。血の弾丸を受けるが相変わらず痛くはない。
むしろ、ルナの方が疲弊してきていた。
――無茶なことをするな。
さきほどまでの戦いで、血をかなり使ってしまったのだろう。
蒼白な顔になり、ぜいぜいと肩で息をしている。
血の柱を作り出したり、多少量を調整できるようだったが、限界はじきに来そうだった。
「ルナ」
ズデンカは数歩退いて距離を作り、攻撃態勢を止めた。
ハウザーは何もしてこない。高みの見物とでも言ったようだ。
ルナは震えている。
おそらくは、恐怖でだ。体温も下がってきているのかも知れない。
「もう血は使うな」
ズデンカは言った。
「……なんで、君に」
ルナの唇も青くなっている。
「あたしはお前を知っているからだ」
「知らない。わたしは、君なんか知らない!」
ルナは叫んだ。
「知らないと言ってるだろ? ここにいるのはビビッシェ・ベーハイムだ」
ハウザーが代わりに答えた。
「そうだ、わたしはビビッシェ・ベーハイムだ。それ以外の何者でもない!」
「いや、お前はルナ・ペルッツだ。ビビッシェ・ベーハイムは死んだ。お前のせいで」
ズデンカはルナを睨んで言った。
次の瞬間、ズデンカは口を滑らせたと思った。ズデンカはビビッシェがどう死んだかなどわからない。生きているのか死んだのかも実は書籍や新聞に書かれた以上のことを知らなかった。
それだけではない。ズデンカはルナのせいだとはっきり告げてしまっていた。
ルナに責任を負わせるなど、普段の自分なら、絶対に考えないことなのに。
でも逃避するルナを前にして腹が立って、思わず口走ってしまったのだ。
だが、ルナに与えた影響は大きかった。
恐怖の面差し。
震えが全身に広がっていた。
ちょっと前のものが凪ぎに感じられるぐらい激しく。
「さっき言ったことは何でもない、だから気にするなルナ!」
ズデンカは焦って呼びかけた。
返事はない。
「……ビビッシェ……」
やっとルナが絞り出した言葉がこれだった。
ズデンカは狼狽えた。
ルナに釣られて平静を失ってしまってはハウザーを倒すことは不可能になる。
――あたしの言葉でルナは動揺した。ということはビビッシェの最期にルナが何か関わったのは確かなんじゃないか?
収容所で、何があったかはわからない。だが、罪悪感を利用してハウザーがルナを操っている可能性は充分に考えられた。
「ルナ、お前はルナだ。わかるか?」
「ルナ? ルナ?」
ルナは驚愕の面持ちを浮かべたまま、自分の名前を繰り返している。
「いくらやってもムダだよ。ビビッシェは俺の部下で、先の大戦ではずいぶん働いてくれた。最後にもう一働きして貰うけどね」
ハウザーは言った。相変わらず冷笑を浮かべながら。
それを見たズデンカは思いきってルナを抱きしめた。
強く、でも窒息させてしまわないように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます