第六十四話 深淵(3)

 自分よりはるかに背丈の低い相手の肩に乗るというのは妙な体験である。


 ズデンカは己の足でずっと歩いてきたし、人を背負うことは多くあっても、背負って貰った経験はまだ人間だった頃に遡らなければない。


 だが、いま自分は大蟻喰の忍び足とやらでドードーまで運ばれている。


 いい気分ではなかった。とは言え、悪い気分でもない。


 ズデンカは何もせず大蟻喰の歩みを見続けた。


 やはり二人連れだと移動には十分以上掛かってしまった。


 ズデンカは時計を持っていないのでちゃんと計ったわけではないが、それぐらいは経過していただろう。


 さすがにドードーまで辿り着いたら、ズデンカは自分で登ることにした。


 鉄板の上を音を立てないよう静かに静かに進む。ここでもまた時間が掛かった。


 普通の人間なら途中杖我慢の限界が来て下に落ちて死ぬだろう。


 だがズデンカは吸血鬼なので大蟻喰と共に鉄扉に辿り着くことが出来た。


 さいわい、ズデンカでも身を屈めたら入れる程度には大きかった。


「なかはどうだった?」


 ずっと無言だったズデンカはその時初めて聞いた。


「さてね。暗くてわかり辛かった。でも機械のようなものがたくさんあったよ。頭の中に焼き付けてきたんで、紙があればざっと写生することもできるんだけどね」


 大蟻喰は言った。


 おおかた画家を喰ったのだろう。


 ズデンカはこんなどうしようもない存在に食われた素晴らしい画家を不愍ふびんに感じたが、すぐに鉄扉を通り、梯子を伝って下へ下へと降りた。


 なかは闇だ。深淵を覗き込むようだ。だが、ズデンカにとって闇ほどいいものはない。


 綺麗に見通すことが出来た。


 ズデンカは先頭に立って、大蟻喰はその後ろに従うかたちで進んでいった。


 床は格子状の網の目で作られた鋼製の通路になっていた。


 道の両側では、精巧な機械の歯車が絡み合って自動で動いている。


 何かを作り出そうとしているのだろう。


 ズデンカは禍々しい妖気を感じた。


 どうもピョートルから血を貰って、このあたりを感覚も鋭くなったらしい。


 前までは悪魔モラクスの力を借りなければわからなかったが、今はピンとくる。


 『鐘楼の悪魔』で間違いない。


 裁断する音が響いてきた。おそらくはページだ。


 たくさんの紙が束ねられて積まれている。機械の腕で、その一枚がローラーの下に送られる。


「なにこれ? 印刷工場?」


「だろうな」


 べったりと濁ったインキが紙の上に印字がどんどん付けていく。


「すげえヤバイ雰囲気だよね」


 大蟻喰も警戒の色を隠さない。


 ズデンカは奥の奥の方へ向かった。


 造本が行われていた。ページのかたちでまとまったものに背を糊付けをして作業だ。これも機械で作られた腕が行っていた。


「どんな技術で動いてるんだろうね。これ」


「これもきっとルナの能力を応用したものに違いないだろう」


 ハウザーの手下たちが使っていた能力も全てはルナのものが応用されたのであろうことは前から推測がついていた。


ルナの持つ幻想を実体化できる能力『幻解』はあまり長時間続かない弱点がある。本人の気まぐれな性格に左右される要素も大きい。


 だが、ここにある機械は四六時中動いているように思われた。


「それを出来るようにしているのが鼠の三賢者の一人、カスパールなのだろうな」


 ズデンカは推測した。

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