第六十三話 メルキオールの惨劇(13)

「ルナ!」


 ズデンカは思わず叫んでいた。


「君はなぜわたしのことをその名前で呼ぶのかな?」


ビビッシェは答えた。


 首を傾げながら。


「お前はルナだからだ。いくらビビッシェを名乗ろうが、あたしにとってお前はルナでしかない」


 ズデンカは一息に言った。


「知らないって言っただろ。その名前は」


 しかし外見はともかくその話し方は紛うことなくルナなのだった。


「あたしはルナと長く旅をしてきた。だから、声もよく知っている。しぐさもよく知っている。お前はルナだ。ルナ以外の何者でもない!」


「違うったら!」


 ビビッシェの顔に怒りの影が差した。


 掌を突き出して、手首から血液の弾丸を飛ばす。だがズデンカはそれを身体に受けた。


 血液の弾丸は次から次へとズデンカの身体の中へ吸い込まれていく。


「お前の血なんて、少しも怖くない……さあ、戻ろう」


 ズデンカは言った。


「近寄るな!」


 ビビッシェの表情は怒りから怯えに近づきつつあった。


――やっぱりこいつはルナだ。泣き虫のルナだ。


 ズデンカは近付いた。


 ビビッシェは退いて、自らが作り出した血の柱に蹴躓けつまづいた。


 そのせいで、メルキオールから流れ出す血が、ビビッシェの顔に降りかかった。


「ズデンカさん……」


 メルキオールは弱々しい息で呟いた。


 首や胴体に凝固した血の柱が突き刺さっている。


「あたしが助けてやる! もし、死ぬんだったら……」


「無理ですよ……先に行ってください」


 メルキオールは人間より長く生きることが出来る鼠で、特殊な存在だ。吸血鬼に変えることは難しいだろう。


「お前がいないと困る。どうやって、ハウザーの居場所を探せばいいんだ」


 元スワスティカ親衛部長カスパー・ハウザーは、鉄で作られた巨大なドードー鳥を動かしてそのなかに隠れている。


「ここから南……ごほっ」


 メルキオールは血を吐いた。


「大丈夫か」


 と言うズデンカに、


「ズデ公。ルナが逃げたよ」


 いつの間にか来ていた大蟻喰が囁いた。


 ビビッシェ・ベーハイムの姿は跡形もなかった。


「ルナは『刺絡』だけではなく自分の能力も使えるらしいね」


 心の中で思ったことを実体化できる力をルナは持っている。


「クソッ!」


「場所はわかったんだからさっさと追おう」


「こいつを助けるのが先だ!」


 ズデンカは叫んだ。


「馬鹿言ってるんじゃないよ。もう助からない。見たらわかるだろ」


 メルキオールはもう息をしておらず、瞳だけが鈍い光を宿してこちらを見ていた。


「だが……」


「メルキオールだっけ? も先に行けって行ってたじゃないか」


 大蟻喰は急かした。


 「わかった」


 メルキオールとは短い付き合いだったが、大きな力を貰った。多大な恩義がある。にも関わらず、葬ることすら出来ないとは。


「ズデンカ!」


 ジナイーダも追い付いてきた。


「メルキオールは私が下ろして、弔ってあげる。だから、ズデンカは何も気にしなくて良いよ!」


 思いきって一息に言ってのけた。


「頼む」


 ズデンカはジナイーダを頼った。


 考えていたより、その機会は早く来た。


 自分が守らなければ、育てなければと考える必要はないのかもしれない。


 ズデンカは走り出した。


 たぶん、顔には笑みが浮かんでいるのではないかと思えた。

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