第二十一話 永代保有(9)いちゃこらタイム

 黒々と広がる西蛇海を目にして、フランツはなお悄然としていた。


 待合席に戻るしかやることがなかった。先ほど待っていた人たちはどこかに姿を消しており、坐っているのは二人だけだった。


 雨はもう止んでいる。再び降る様子が見えないのが幸いだ。


「船、来ませんね」


 オドラデクが陽気に言った。


「……」


 フランツは口を閉ざしていた。


「まあ乗ったら、船酔いになりますよ。フランツさんにはゲロを吐いて貰わなくちゃあなりません」


「……」


 フランツはまだ黙っていた。


「こりゃ相当重症だなあ。いつもなら言い返してくるのにねえ」


 オドラデクはつまらなそうに言った。


 しばらく言葉のない時間が続いた。オドラデクはフランツの鞄を開けてあちこちに手を突っ込み何かを探していた。


「やっぱりない。フランツさんが買った本は二冊だけです。小説と、『海路道しるべ』ぐらいだ。前者は暇潰しに、後者はあった方が航海は楽しくなる。まあ実用的な理由です。あなたなら考えそうなことだ」


「そうだな」


 フランツは応じた。


「言葉を発しましたね」


「ああ」


 だがその眼は沖合を見詰めていた。何かがやってこないかと期待したのだ。


 何かと言うのはもちろん、船だ。時刻表によればそろそろやってくるはずなのだ。


 ここまで荒れた海のため、運行は遅れているに違いない。


 実際水平線の向こうには何も見えない。ノコギリの歯のように激しく揺れる波が広がっているばかりだ。


 フランツは係員に聞くことも考えはした。だがしなかった。億劫だったのだ。


「俺は今まで自分の記憶に自信があったんだが……」


「そう言う時もありますって。誰しも全てを記憶していられるわけじゃないですからね」


 オドラデクは妙にしんみりと語った。


「だが、それは俺にとって大切な記憶なはずだった」


「大切なものをなくすことだってある。そうでしょ?」


 オドラデクはフランツの肩を叩いた。


「……」


「記憶がないなら新しく作ればいいんです」


「どういうことだ?」


 フランツの感情は動いた。


「ぼくと楽しい思い出を作ればいいってことですよ」


 フランツは吹き出した。


「なんでお前と」


「過去を思い返すのが辛くなっているのなら、ってことです」


 確かに図星だった。ほんのさっきまではあんなに楽しかった過去の思い出――ルナとの思い出も、今では辛く感じられていた。


 それが偽りの思い出だったと気付いたら忘れてしまうのではないか。


「ぼくと今を楽しんじゃえば、過去を思い出している余裕なんてないですよ」


「そうだな」


 フランツは自分の声が笑っていることに気付いた。


「でしょ。フランツさんは深刻に考えすぎなんですよ。柔らかく考えましょう。ぼくみたいに柔らかく!」


 と言って関節をグニャグニャ動かして見せるオドラデク。元々人ではないのだから、骨格も好きなかたちに変えられるのだろう。


 フランツはさらに笑った。流石に馬鹿笑いとまではいかなかったが。


「ほら、そんなことを言っている間に船が来ましたよ」


 オドラデクは沖を指差した。


 波と同じように黒い煙を吐きながら蒸気船が迫ってきた。


 フランツは息を飲んだ。実は乗るのは初めてなのだ。これまで陸路か、船を使うにしても帆船ばかりだった。


 その様子を見て、オドラデクは笑った。


「何がおかしいんだ」


 フランツは思わず怒っていた。


「昔のこと、うまく忘れられそうでよかったですね」


 オドラデクはフランツの耳元で囁いた。


 フランツはなぜだか恥ずかしくなった。

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