第十三話  調高矣洋絃一曲(9)

 高らかにギタルラを響かせて、カルメンは曲を終えた。


「うん……と言いたいところだけど、連れがいてね」


 半ば聞き惚れながら、羽ペンを一走りさせて文字を書き終え、ルナは寂しそうな顔をした。


「それ、インクをつけてないねぇ。どうやって書いてるのぉ?」


 ルナは優しく頷いた。


「うん。それ、気付いた人ほとんどいないよ。君とあと一人ぐらいだ」


――ズデンカ。


「この羽ペンはね。幻想をインク代わりに書くんだ。君の見た幻想を」


「あたしの見たげんそぉ?」


 カルメンは不思議そうに首を捻っていた。


「そう、目には見えないもので、君の綺譚おはなしを書いたのさ」


「不思議だねぇ」


「ふふふ」


 黒い目を光らせてひたすらこちらを見つめてくるカルメンの姿に、ルナは思わず笑ってしまった。


「読ませてよぉ」


「ダメなんだ。これはわたし以外が読む事ことが出来ないんだよ」


 覗き込もうとしてくるカルメンを避けながら、ルナは大事に手帳を締まった。山の中腹から転げ落ちた時、なくしたりしなかったことに安心した。


――これを読めそうなやつはほとんどいない。あいつを除いては……。


 カスパー・ハウザー。


 時間は大分経ったはずなのに、まだ恐怖を覚えるほどだ。


 心に付けられた古傷は疼く。


 ――やつはわたしをまた利用しようとした。なのに、少しも動けなかった。逃げ出せなかった。


 震える肩を優しくポンと叩く手があった。


「どうしたのぉ?」


 カルメンだった。


 ふっと、心が軽くなった。


「辛いことがあってね」


 いつもは隠したがるルナだったが、暖かなカルメンの申し出に素直に喋ってしまった。


 言ってから少し後悔したが。


「大好きなメイドと、離ればなれになって寂しい」


――『大好きな』って。笑われるだろ、それ。


 ルナは皮肉な気持ちになった。


「それぇ、もしかして例の『連れ』ぇ?」


「うん、そうだよ」


 ルナは認めた。


「大好きな相手がいるって、いいことだぁよぉ。一人でも生きてけるけどねぇ、二人ならなおいいねぇ」


「君にもそんな相手がいたの?」


「うん」


 カルメンは頷いた。


 ルナは知りたかったが黙っておくことにした。


 「わたしは他と折り合って生きていくのが苦手でね。色んな人と関わったけど、すぐに離れてしまう」


「あたしもそんなものさぁ」


 カルメンは深くは告げず、歩き出した。台所へたどり付き、お茶を沸かし始めたようだ。


 こんな洞窟の中で、どんな手段で火を使っているのか、ただでさえ日常些事に疎いルナにはまるで分からなかった。


 カルメンはお茶と、チャパタをお椀に乗せて持ってきた。


 ルナは猫舌だ。ふーふーしながらお茶を飲みつつ、それでも喉がちょっと火傷してしまい身を震わせた。


 チャパタにもバターを乗せて囓り付いた。


 カルメンの手作りなのだろうか。ここ数年何も何も食べていなかったほどの美味しさだった。


「食べ方、子供みたいだねぇ!」


 カルメンにからかわれた。


 ルナはゴクンとチャパタを飲み込む。


「そうだよ。わたしは大人になれないんだ」


 ルナは寂しそうに言った。


「ゆっくり成長してけばぁ、自分のペースでぇ」


 カルメンは朗らかに笑っていた。


 ルナは心が安らぐのを覚えた。


「そうだ。君はわたしに綺譚おはなしを語ってくれたから、願いを一つ叶える権利を得た。望むことはあるかい? 例えば、お兄さんのラサロとまた会いたいとか?」


 すっかり食べ終えた後にルナは思い出したかのように言った。


「いんやぁ」


 カルメンは首を振った。遠くを眺めるかのような眼をする。


「もう、遠い昔のことになっちゃったからねえ」


ルナは焦った。


「じゃあ、どうすればいい? 何をしてあげれば?」


「何もしなくていいよぉ」


「それは困る。今までだって、曲がりなりにもみんなの願いを叶えてきたんだ!」


 断る人もいたが、それでも何かを探して叶えてきた。


 カルメンはルナの皿を持って歩き出した。台所に返す、という単純なお願いすら拒むかのように。


「うーん、考えとくよぉ」


 尻尾をふりふり動かして歩くカルメンは、ゆったりした時間の流れの中に生きているかのようだった。

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