第十二話 肉腫(3)
病気の娘を前に母親はまたハンカチを濡らした。
「もう一年近くもこんな状態なんです。動くことすら出来なくなって。この宿から外に出ることすら難しいんですよ」
「それはお気の毒です」
フランツもそう答えるしかなかった。
「なら娘さんはもうお医者さんに預けてあなただけ出ていけばいいでしょ」
オドラデクは言いづらいことを容易く言ってのけた。
「サロメは私の一人だけの娘なんですよ! 出てなんかいけるもんですか。ずっといて貰わないと困るんです」
「ほう、いて貰わないとですか。でも娘さんとあなたは別人じゃないですか?」
「娘です。家族です。別人じゃありませんよ」
「でも生きるのも死ぬのも別じゃないですか。自由になっても、ねえ」
オドラデクはニヤリとした。
「だからどうだというんです!」
母親はサロメの方を向いてその背中を撫で擦り始めた。
「ほんと、神さまは残酷ねえ。なんで私のサロメをこんな眼に遭わすんでしょうねえ」
答えず、瞬きをしているだけのサロメの様子など構わず、母は一心に撫で続けた。
「どうも違和感がありますね。あの親子」
オドラデクが耳打ちしてきた。
「確かにな」
フランツもいやいや同意した。
「それに、あの肉腫の顔……」
「顔がどうかしたか?」
「似ているんですよ……心なしか、あの母親に」
「そこまでは気付かなかったが」
「何とも嫌な感じがするんですよねえ」
「早く出ていきたいな。時間の無駄だった」
フランツは咎めるようにオドラデクを見た。
「まあ少しばかり待ってくださいよ。何かが起こるはずなんです」
「俺の目的は……」
途中でフランツは黙った。いくら小声で話していると言ってもスワスティカ狩りの任務を第三者の前で話すわけにはいかないのだ。
「サロメ! サロメ!」
「まあ、一つご食事でもどうでしょうかね」
「失礼なことばかり仰るあなたとですか?」
不機嫌な顔になって母親は振り返った。
「もちろん、ぼくのおごりですよ。なんでも、どんな高いものでも注文してくだすって構わないんですよ」
オドラデクはウインクした。
おごりと言っても出るのは結局フランツの金からなのだ。
さっき金を渡した時からかわれたのに、さらに輪を掛けてからかわれた気がした。
とたんに母親の顔が明るくなった。
「あらあらまあまあ、私この近所でいいランチのお店知っておりましてねえ」
そう言って立ち上がる。
オドラデクの読みが正しかったのだろう。
すぐに二人は出ていった。
フランツは取り残された。
――つまり、これは奴の作戦なんだな。俺と娘を向かい合わせるって訳か。
とは言え、何と声を掛けて良いのかは分からないのだった。
「あの母親と一緒にいて、嫌にならないのか」
「嫌……です」
蚊の鳴くような声で返答が帰ってきた。
「まあそう言ってもお前の状態じゃ、逃げ出すことはできないな」
「そうです。この肉腫は、まるで母のように、私から全てを奪っていくんです」
枕に顔を押し付けながらサロメは悲痛な声を上げた。
オドラデクの言っていたことを思い出した。フランツは肉腫に近づいた。そう言われれば確かにこの皺は母親に似ているような気がする。
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