第四話 一人舞台(8)

「それがどうか致しましたか。講座にくる若者などたくさんおりましてね。わざわざ覚えておりはしません」


 リヒテンシュタットは呆れ果てたような顔になった。


「黒髪を後ろで括った方でした」

「そういう人もいたかも知れませんね。そりゃ確かに講座からプロになった者もいますが、講座に出たからと言って有名になれるわけじゃないんですよ。厳しい世界なんです。ペルッツさまは演劇畑ではないのでご理解頂けないでしょうが」


「ヴィルヘルミーネさんは、頑張って一生懸命俳優になろうとしていました。店に出て働いて、自分でお金を稼いで。わたしならとても出来そうにない」


 ルナは言った。リヒテンシュタットに近付いていく。


「だからどうだと言うんです。繰り返しますが、プロになれるのはほんの一握りなんです。思い出しましたよ。その娘さんとは今あなたの連れ合いが殺した者たちとお酒を飲みました。それだけですよ。今日みたいに大勢で集まっていたんでね」


 ワインを一息に飲み干してリヒテンシュタットは言った。


「ほんとうにそれだけですか」


「そりゃね、ちょっとやそっとばかり身体の接触はしましたよ。泣いていましたっけね。もっと飲ませてからの方がよかったかな。遊んでやりましたからね。手荒でしたか。でも、枕営業ぐらい、俳優を目指している女は当たり前にしますよ。代わりなんて幾らでもいるんです。後で金をせびってきたりね、死んだみたいな話一杯ありまして。脱いでなんぼのもんじゃい、のしあがったるわみたいな図太い女の方が、私らの業界では生き残るんですよ。それが芸術ってもんです」


 リヒテンシュタットは下品に言った。


「そうですか。じゃあ、あなたにとって芸術とは――舞台とは、お芝居とは一体何なんですか」


 リヒテンシュタットは面食らったようで顎髭を弄り始めた。 


「難しいことを質問されますね。芸術ってものは――そもそも女には理解できんのですよ。子供を産める女にはね。男は産めないからこそ、頑張って芸術を残そうとする。そんなもんですよ。おっと失礼、ペルッツさまも女性でしたね。早い話、ある種の独占的な狂気、妄執の持ち主しかいい作品を作れないんですよ。私は私だけのためを考えてお芝居を、舞台を作っています。俳優も、美術も、結局私という芸術家の手駒に過ぎないんです。稀にいい材料だと思った女だけひょいっと摘まんで舞台に出してあげる、みたいな感じですかね。そういう芸術家の意志を反映させるかたちでこそ素晴らしい作品は生まれないんじゃないでしょうか」


 ルナは部屋に入って初めて微笑んだ。だがそれは冷たい笑いだった。


「なるほど、よく分かりました。あなたは舞台をご自分お一人の者だと考えていらっしゃる。他と協力することなく、自分独りだけで、独占するものと。もちろん、そういうお考えがあってもよろしいと思います」


「ご理解頂けたようでありがたいです」


 リヒテンシュタットはまた酒を飲んだ。


 ルナはライターを取り出し、パイプに火を点けた。


「では、これからやることはわたしの個人的で独り善がりな私怨からの復讐です。友人の――ヴィルヘルミーネさんの瞳の輝きを殺したことに対する、ね」


「なっ、何をなさる……おつもりですか」


 そう言ったリヒテンシュタットは怖じ気づきながら立ち上がり、本棚の方へ逃れていった。


「しけた幻想に報いあれ」


 煙がその顔に吹き付けられた。

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