第1章 第6部 第38話
「あ!鋭児君良いタイミング!」
美箏がダイニングテーブル上のコンロの鍋の様子をうかがっていたところで、アリスは何時ご相伴にあずかろうかと、静かに待ち構えている状態だった。
顔は済ましているが、鋭児は何となく彼女が楽しみにそれを待っているが解るのだ。
「水炊きか……こう言うのも久しぶりかな」
湯気の香る鍋の前に腰掛けると、鋭児もなんだかホットした気分になる。ここに焔と吹雪が居ないことが残念でならないが、今それを口にするのは野暮であると思った。
「うまそ……」
「へへ……」
鋭児がなんとも、ほっこりとした表情をするものだから、美箏もつい照れてしまうのである。
「春休みには、また帰ってくるよ」
「うん……」
美箏は返事はしたが、意識は鍋の蓋から吹き上がる湯気に少し気持ちを向けていた。
そして、そろそろだと思うタイミングで鍋蓋を外すと、一瞬蒸しかえるの蒸気が室内を包むのである。それと同時にグツグツと煮立った音が、より大きく聞こえるのだった。
食材は主に美箏が取り分けてくれる。鍋の中身はオーソドックスなものばかりだったが、こうして囲む食事が良い。
美箏としては、父母が居るのだから、本来それほど深みのある情景ではないはずだが、鋭児との食事であるということが、よりその時間に深みを与えるのだった。
食べ終わる頃には、アリスの頬も、赤みが差して体が十分に温まった様子を見せる。
「食べ過ぎた……かな」
流石の鋭児も動けないでいる。それは美箏も同じようで、空っぽになった鍋の前で三人動けずにいた。本来なら誰かが片付けに動かなければならないが、それはもう少し後になりそうだ。
「美箏ちゃん。今夜は止まっていくんでしょ?もう寒いわ……」
十二月の夜である。言い方は、まるで自分の家であるかのような言い回しのアリスであるが、確かにそうである。鋭児は送るつもりで居たのだが、アリスが先手を打った形だ。
確かにせっかく温まったのだから、このままのんびりと大晦日を過ごしても良いのだろうと、美箏は思う。彼女の中で明日一日、こちらで過ごして、夜になれば両親と年越しそばを食べるというなんとも、彼女らしくない怠惰な予定が出来上がる。
その時、鋭児が一つ気合いの入った柏手を入れると、半分蕩け掛かっていた美箏の表情がはっとする。
悪い悪戯だと、鋭児はアリスを少しだけジロリと見る。するとアリスは残念そうな表情をするのである。それの意図するところを、美箏が知るよしもなかった。
「ん……でも、やっぱり今日は泊まっていく」
美箏は思い返したのだが、そう決断したようだ。
すると、アリスはクスクスと笑い始めるのである。
「パジャマは私のがあるから、貸してあげる。下着を借りるなら、焔のほうがいいわ。吹雪のは一寸……ね」
「え?」
美箏は何のことが解らなかったが、実は鋭児の部屋に、いつの間にか二人のお泊まりセットが格納されていた事実を、鋭児は今になって知るのであった。
「えっと。私も実は……」
そう言って申し訳なさそうに、モジモジとしながら美箏は少々自分の厚かましさに、恐縮した様子を見せる。
「え……」
その意外性に、鋭児も若干驚きはするものの、美箏としては、恐らく用意周到の部類で、焔や吹雪のそれとは、若干意識が違うことくらいは、何となく察する。
彼女自身も、実は吹雪達が遊びに来るのを楽しみにしていた節があるのだ。女子三人ともなれば、積もる話もあることだろう。特に彼女たちには、それぞれ知らない鋭児がいるのである。
それを話すには、一晩二晩では足りないくらいだ。
寝室には一組の布団が用意される。長らく使われてはいなかっただろうが、天日干しもされており、手入れは十分行き届いているようだ。
とはいうものの、手入れをしていたのは美箏ではなく、東雲家の家政婦部隊である。
彼女とて、沢山の時間を鋭児宅に費やすことは出来ない。ただ、来訪日時は連絡があるようで、美箏はそれを知っている。
用意された一組の布団はシングルサイズではなく、セミダブルと明らかに夫婦モノであるものが、客間に用意されており、パジャマ姿のアリスが、すまし顔で正座しつつ、美箏を待ち受けているのだが、何故か赤面した鋭児が、アリスの正面に座らされている。
「え……っと?」
状況が理解出来ない美箏は、アリスに言われるがまま客室にまでやってきたのだが、抑も何故彼女が仕切っているのかが解らない。
布団は他にあるわけだし、態々それを準備したの理由を解析し始める。
「ほら鋭児」
アリスは、布団の中央をポンポンと叩いて鋭児をそこに、寝るように導く。
「いややっぱ、俺自分の寝室で……」
「貴方、美箏の事が嫌いなの?」
「は?だからなんでそうなるんですか?」
「数々の女子を誘惑した、その腕枕が、美箏にはしてあげられないと……」
「な!何誇張してんすか!」
といいつつ、鋭児は顔を真っ赤にするが、事実、焔、吹雪、千霧、逆パターンでは蛇草もあるし、昼寝と称し、アリスもその一人である。とても否定出来る状況ではない。誇張でもない。ただ、虜にしたかは、彼女たちの個人的な感想になる。
「姉ちゃんが大事な話があるからっていうから!」
鋭児がアリスをそう呼ぶ瞬間は、間違い無く心の動揺が抑えられないときであり、それはアリスも分かっており、ヌルリと鋭児をからかって楽しんでいるのだが、満更冗談で済ませるつもりもない。
「美箏は、鋭児が嫌いなの?」
「そ、そう言う問題じゃないと思うんですが……」
パジャマ姿の美箏はすっかり困ってしまっているが、アリスからすれば、満更そうでもないように見える。ただ常識の範疇からして、高校生の自分達には、一線を越えたものだという認識が、当然ながら美箏にはある。
「私も、孤児院でこういう、家族の絆のような経験て余りなくて、きっと鋭児なら解ってくれると……」
と、急にしおらしく、嘘泣きをし始めるアリスであった。それは悪乗りのしすぎだろうと鋭児は、拳を振るわせるが、実は事前に焔と吹雪から、余りアリスを邪険にしないようにと、釘を刺されているのである。
勿論鋭児も邪険にするきはなく、当初何故着いてくるのか?という疑問もあったが、彼女もまた親兄弟も身寄りも無い一人であり、家族に対する憧れがあることは解っており、自分に姉呼ばわりさせるのは、そう言う部分から来ているのだと鋭児は思っていた。
しかし、ここまでくると、何処までが本当なのか解らなくなる。
たまにチラリと鋭児の様子を伺い、鋭児を見ては、態とらしくシクシクと、泣き始めるのである。
「わ……解りました」
美箏は顔を真っ赤にしながら、何故かアリスの嘘泣きに感化された様子を見せる。
「え?いや、美箏!?」
「焔さんも、吹雪さんも、とても楽しそうに過ごしていました。私達に……ううん。私に当然あるものが、二人にはなくて、鋭児君はなくして……、私には何もしてあげられなくて、貰うばかりで……」
美箏がポツポツと胸の内を吐露し始めるのだ。
これは、彼女の母である文恵が焔に感化されたのと同じ心境でもある。無論焔には、全く邪気がなく真っ直ぐで彼女らしい気持ちで、文恵を籠絡させてしまったのだが、アリスのそれは明らかに違う。
それでも、母の性格を多分に引き継いでいるのだと、鋭児にも思わせる美箏の一面であったのだ。
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