第1章 第5部 第39話

 少し荒くなった焔の息づかいが聞こえる。勿論鋭児も息を上げているのだが、焔のそれだけが妙に鮮明だった。汗に混じった焔の香りが、妙に自分に絡みつく。

 「いいな。舞台から降りるまで、倒れるなよ」

 焔が耳元で囁く。

 鋭児自身は気がついていなかったが、鳳輪脚連弾を打ち、気力を振り絞って焔と正面衝突を仕掛けた鋭児の足下は、相当にフラついていた。

 息が整わない。

 真横で、焔が勝者として審判に腕を掲げられているが、鋭児にはそれすれも朧気だった。

 限界以上に力を使ってしまっていた。それでも、焔の言葉が耳に残る。鋭児はもうろうとする意識の中、微かに見える入退場口に向かい、焔と背中を向け合い。

 舞台を去るのである。

 その時、焔の体大きく蹌踉めく。だが、すぐに焔も踏みとどまり、舞台を降りて行く。

 だが、鋭児はそんな焔に気がつかなかった。

 

 「いかんの……蛇草ちゃん!」

 そんな焔の姿を見て不知火老人が血相を変える。ただ声は余り大きく立てはしなかった。

 額には冷や汗を流しており静かに立ち上がる。その表情をみた蛇草も立ち上がり、一瞬鋭児を見るが、不知火老人は蛇草の腕を取り、自分に突いてくるように指示する。

 鋭児は心配だが、千霧もいる。

 今は不知火老人の動揺の方が遙かに問題だ。

 不知火老人は、急いでいるが決して走りはしなかった。そして、蛇草の手も離していた。そんなことをしなくても、蛇草は自分の意図を汲んでくれていると、不知火老人は思っていたからだ。

 二人は一切言葉を交わさず、焔の控え室まで辿り点き、葉草を連れてはいると、控え室の鍵を掛けてしまうのである。

 そして、其処にいたのは、胸を苦しそうに押さえた、息絶え絶えな焔の姿だった。

 「はやく……心臓が……止まっちまう……」

 漸くそこに現れた誰かに懸命に手を伸ばして、焔はすがる。

 瞳孔が開いており、目の前にいる自分達を殆ど認識などしていないだろう。

 「いかん!蛇草ちゃん!」

 不知火老人は取り乱しがちだったが、それ以上には草は戸惑った。意味が分からない。先ほどまで元気に動き回っていた焔が、今は瀕死の状態なのだ。

 「は……はやく!」

 誰が何をどう出来るのかなど、本人も全く解っていないのだ。ただ今はまだ、その時じゃないと、必死で藻掻いているようだった。

 蛇草は直ぐさま焔の横に座り、焔の胸に手を当て、気を注ぎ始める。

 「御爺様……これは!?」

 洗いながらも整い始めた焔の呼吸。

 「絶対……鋭児には……いうな……」

 蛇草がそこに居合わせてくれて本当に良かったと、焔一瞬安堵の表情を浮かべ、ただその一言を言わんとするために、最後の気力を使った後、気を失ってしまう。

 そして、後生の頼みだと言わんばかりに、握った蛇草の手から、焔の手がするりと、力なく落ちる。肩で息をしており、蛇草も彼女がただ気を失っただけなのだと、不知火老人もホッとした表情を浮かべる。

 

 焔は鋭児との一戦で気力を使い、疲労困憊に陥ったという事になる。

 そうしたのは、勿論不知火老人だ。

 蛇草は不知火老人に案内され、焔を彼女の部屋まで運ぶ。

 ベッドに横たわる焔は、落ち着いた寝息でただ眠っているように見える。心拍数も安定している。

 「いつから……ですか?」

 蛇草の言葉は少々厳しかった。当然である、こんな状態の彼女を試合に出させたことは大いに問題にすべきことだ。その経緯を知っているからこそ、彼はすぐに蛇草を焔の所へと連れてきたのだ。しかも、周囲になるべく気取られないように、落ち着いた様子を装ってまでである。

 「赤羽家の倅がの、まぁ炎の能力を持つ者によくある、発作をおこしよってのぉ」

 不知火老人は、まず焔が不知火家に訪れることになる切っ掛けを語るのだ。

 「まぁ幸い、赤羽の方はさして問題は無かったのじゃが、その後数試合……まぁ、それを口実に、赤羽をここに連れてきよったんじゃ」

 すでに鋭児達が知っている理由がこれだ。

 焔と赤羽は、不知火家に帰属するにおいて、呼び立てられたという建前がある以上、二人は何らかの行動をせねばならなかったが、知っての通り、赤羽は焔に腕を折られてしまう。

 腕を折られてしまえば、赤羽は安静にするしかない。

 しかし、焔はその後も、幾試合か、闘士として単発のマッチングで、試合をこなしたのだ。

 「まぁいつも通りじゃがの、二人で談義しとるときにの、倒れよっての……」

 それが焔の病状発覚ということになる。

 「そこいらの、連中とやる分には、問題は無かろうが、問題は……のう」

 つまり、磨熊や鋭児のようなクラスの相手と試合をするには、焔の体が耐えられなくなっているということである。

 「それで、回復の余地は?」

 そう言われると、不知火老人は首を横に振るのである。

 「そんな……」

 これには蛇草も困惑する。

 「ワシには、解らぬ世界じゃ……悲しいのう」

 不知火家の当主であるが、彼は普通の老人である。彼には焔を治療する術など、思い着くはずもないのだ。

 「回復術師は?」

 「焔ちゃんほど、重傷化してしもうては、手の打ちようがないようじゃ……」

 「解りました……。懇意の誼です。それに鋭児君の大事な人ですもの」

 蛇草はそういって、何事も無かったように眠り続ける焔の頭を撫でる。

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