第1章 第3部 第40話
ファミレスで待っていた美箏と合流した一同は、焔を除いて軽食程度の昼食を取る。焔はガッツリ系で攻めている。
美箏から見れば、こんな状況でよくそれだけ食べ物が入るものだと思った。
秋仁と美箏は心苦しさで一杯なのだ。しかしながら、秋仁一人で、二つの家を維持するのは難しいのだ。外に頼れる親戚筋もおらず、断念せざるを得ないのである。
電気代やガス代程度ならば、使われずとも、彼の両親の残した保険金という名の財産を取り崩しながらでも払えるのだが、それでも祖母との二人暮らしの中、取り崩されつつあり、十年間の消費量を考えると、その額は決して少なくない。
「で、鋭児の気持ちは変わんねぇんだろ?」
と、焔が誰もが切り出さなかった一言を切り出した。
無神経に思えるが、彼女はこういう女なのである。軽率そうで誰よりも穏やかな声で、そう言えるのだ。全てそういうわけではないが、これは黒野鋭児個人の問題なのである。
焔や吹雪には為す術もない問題であるため、鋭児が決めるしかない。
「先方さんとは、一時半くらいに、家で会うことになっているんだ」
と、秋仁がこれからの段取りを説明してくれる。
「んじゃ、そろそろ行かねぇと……」
鋭児が腰を上げる。あまりに静かに落ち着きすぎた鋭児のそれが、妙に嵐の前の静けさのような錯覚を覚えさせる。
一番悔やんでいるのは美箏で、自分の学費の圧迫が、黒野鋭児の帰る場所を奪ってしまったのではないか思うと、そこから立ち上がることが出来ないのだ。
立ち上がってしまえば、その全てが後悔に繋がる結果になる気がしてならなかった。
そんな中、鋭児が美箏の頭をクシャリと撫でる。歳としては同い年だが、生まれは鋭児の方が僅かに早い。
家も近く子供の頃からよく知っている二人だったが。こういう鋭児も久しぶりだ。
大人になった分、その手はしっかりしており、彼の逞しさを感じた。
今の鋭児は、両親を失ったときの脆い鋭児ではなく、ちゃっかりと二人も年上の彼女を連れている立派な男子なのだ。
そして、一人で責任ある決断をしてゆくべき年齢でもあるのだ。美箏は鋭児の手の一つで、立ち上がる決断をする。そして彼女にもどうしようも無いことなのだ。
一同は、鋭児の家にやってくる。
秋仁は近くのコインパーキングへと、車を止めた後、全員そろって居間で待機することにした。
約束の時間が、刻一刻と迫って来る中、妙に静かで、微妙に張り詰めた空気だけが、その場に流れていた。
「済みません安森不動産ですが!」
と、黒野家にはチャイムがないため、不動産屋の明瞭な声が、その到着を知らせる。
非常に明るく爽やかな中年男性の声であり、客に不快感を与えないように、十分配慮された、よく通る大声だった。
それがそう感じられたのは、鋭児達が静かすぎたせいでもあるのだろう。
「はい!」
鋭児も声を張る。
そうしなければ、玄関前まで伝わらないというのが一番の理由だ。
特にやけくそでもなく丁寧でもなく、ごく普通の返事だった。
今まで胡座を組んで座っていたが、ゆっくりと立ち上がり、日常そうであるかのように玄関に向かって行く。
そんな中、吹雪だけが立ち上がり、鋭児について行くのである。
「なんか……もう、鋭児のカミさんて感じだな……」
そう、そうしてついて行く吹雪の姿が、あまりに自然で静かで、当たり前のように思えた秋仁は、思わずそんなことをチラリと零してしまう。
焔がチラリと秋仁を見るので、それが失言だったと黙り込む秋仁だったが、焔は特にいつも通り、子共のように駄々を捏ねることもない。
短くも長い廊下を歩き、鋭児は引き戸になっている玄関を空けると、不動産会社の、小柄で服装も髪型も正しく整えられている営業マンと、その後ろに立っている鋭児の家の引取先である人物が立って居た……のだが――。
「蛇草……さん?千霧さん……も」
そう。なんと立って居たのは蛇草だったのだ。千霧は当然蛇草のお供である。いわゆる見慣れた光景でもある。
「なん……で……」
鋭児は殆ど言葉を失う。放心状態になり、ぽかんと口を開いたまま、いつものように涼やかなキャリアウーマンのように佇んでいる蛇草を、呆然として見ていた。
「おや!?ご主人と、お知り合いですか?」
「え……あ……はい」
そうだ。知り合いに違いない。漸く、ほぼ人間としての知能が感情抜きに、答えるべき応答をしただけの鋭児のだが、それは正しく不動産屋にも伝わっている。
「いやぁ、しかしお若い奥様に旦那様ですなぁ」
不動産屋には、そう見えたのだろう。そしてこれほど若い二人ならば、確かにこのような家は持て余すに違いないと思ったのだ。
「お客様も人がお悪い。お知り合いならもっと、早く言っていただければ……」
と言っているのだが、蛇草は涼やかな表情を崩さない。それから、「ふふ」と大人の笑みを不動産屋に向けるのである。
一方若奥様などと言われてしまった吹雪は、大いにデレてしまう。その言葉だけが、お気に入りの楽曲のように、リプレイリストに入ってしまっている。
「私も驚きです。ちょうどこの辺りに、一軒家を構えておきたくて……、知人の所に屡々行かなくてはななくなりましたので、急遽……」
などと、どう考えても見え透いた嘘だったのだが、不動産屋としては話が滞りなく進めばそれで良いのだ。
「え……でも」
鋭児は何を言って良いのか解らない。ただ、蛇草が其処にいることが驚きでならない。
「主の確認も出来ましたので、後日正しく契約をさせていただきますのでよろしいですか?」
と蛇草は、本当に大人の女性の対応を見せる。笑顔も涼やかに礼儀を損なわず、魅力的なのだ。これはいくら吹雪や焔が美人だと行っても、出す事の出来ない雰囲気である。
「ご主人も、私でよろしいですか?」
「え……あ、はい。喜んで……」
鋭児はそれしか言いようがない。
焔、秋仁、美箏は、居間の出口から行儀悪く顔を出しながら、その様子を見守っている。
「なん……なんだ?」
秋仁は状況が理解出来ずに居る。
「んだよ。そう言うオチかよ……」
焔はため息をつく。しかし、その表情は非常に気が抜けた安堵感に満ちていた。
「鋭児君どうしたの?」
「ありゃ、鋭児の上司……になる女だよ。てか、社長……かな」
「社長って……焔ちゃん……君らの学校って……」
「ん……まぁ平たく言えば、VIP専門のエリートSPの学校……てか、格闘技専門の……」
「っほう……」
「鋭児は見込まれて、まぁこのまえ契約書にサインしたとこっつぅか……」
焔は、これほどに一本取られたと行った気分になったことはなかった。そしてこれは、大人にしか出来ないことなのだ。
いくら炎皇だといわれても彼女は学生であり、一般社会においては、何の権力も持たない学生なのである。だからいくら金を積もうと、社会的責任能力を認められていない焔や吹雪には、どうしても不可能な事だったのだ。
「では、後日……」
営業マンは、状況をよく察しており、これ以上水を差さないように、後の契約を信じて、その場を去るのだった。
不思議な光景であったものの、鋭児と蛇草の返事は非常に良好なものだったのを知った上でのことだ。
「なんで、家の事……知ってたんすか?」
「鋭児君。これでも東雲家御庭番頭よ?自分が見初めた人材の調査くらいはしておくもの。将来東雲家のために、滞りなく熟しておくべき仕事の一つ……」
鋭児が、少し声を震わせていたのに対して、蛇草は、それが大事にならないように、鋭児の耳元で囁くようにそう言う。ただ、それそのものは、決して卑怯な物言いではなく、利かせかせすぎるほど、気を利かせた一言だった。
その瞬間、感極まった鋭児が、蛇草を力一杯抱きしめる。
「蛇草さん!俺、俺……」
鋭児の大胆な抱擁に蛇草は一瞬目を丸くした。だが、すぐに鋭児が震えているのが解る。それは決して自分に、恋慕の情を抱いたものではなく、本当に感謝に満ちあふれた、抱擁である事を知る。
それでも、そのあまりに熱い抱擁に、蛇草は胸がどきどきしてしまう。
何より、鋭児の震えは、堪えきれない涙の表れであり、その表情を一番目にしていたのは千霧だった。
吹雪はただ、震える鋭児の背中を微笑んで見つめていた。
「鋭児君!そんなに抱きしめられちゃうと、蛇草は!ああ!」
そうこういう風に途方もなく困った子犬のような鋭児の心の声がたまらなく、この上なく好きな葉草は、もうどうにかなってしまいそうなほどに、心を時めかせている。
それでも感極まった鋭児は蛇草を放さないでいると、蛇草は感激のあまり気を失ってしまうのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます