第1章 第3部 第37話

 鋭児達が去った後、葉草達は、滞在している部屋で、一息ついていた。

 兎に角蛇草はホッとしていた。どういう形であれ、鋭児自身の手で契約書にサインをしたのだ。それにしても、てっきり不知火家に引き込むと思っていた焔が、まさか鋭児のために自分達に対して頭を下げるとは思いも寄らなかった。

 加えて霞が、鋭児を説得するとも思っていなかった。

 蛇草としては、自分達の雰囲気を見て鋭児が決めてくれれば良いと思ったのだ。勿論自分達の希望が叶うことが最も大事だ。

 六家という物は特に仲違いをしているわけではない。そしてどの家も安泰でなければならない。幸い東雲家には、霞が居るし彼に何があったとしても、美逆が居る。

 そして、御庭番頭領として今は自分が居るし、数年後には、弟の翔が居る。安泰ではあるが、美逆は自由だし、鼬鼠はまだ若い。

 彼自身の御庭番なのだから、彼が作り上げれば良いのだが、そう言った意味で、蛇草の心配は絶えない。それは彼女の取り越し苦労なのかも知れないが、それでも信頼出来る仲間が一人でもいることに超した事はない。

 翔に殺されかけながら、それでもあの事件で翔を最後までフォローしてくれた鋭児は、それだけで十分信頼に値すると、蛇草は思う。信頼は心だけではなく、力も必要だ。

 鋭児に何かを頼んだとき、彼が一人で行動出来ない人間では、側近として使い物にならない。

 蛇草に千霧がいるように、翔にもまた、そう言う存在が必要だと思った。

 勿論葉草自身が鋭児を気に入っているというのもあるが、彼女が鋭児を気に入った理由は、前述しての通りである。彼は助けてくれるのだ。

 「随分おつかれのようだね?」

 そんな蛇草の様子を見て、霞はクスクスと笑い出す。

 「もう、霞様は私をからかいすぎです。酷すぎます!」

 と、蛇草はつんと拗ねた様子を見せる。疲れたことに関しては触れなかった。霞に世話を掛けさせてしまったことに関しては、すでに謝罪しているし、彼がそれをよしとしているのだから、そのことに関しても触れる必要は無かった。

 それでも、蛇草が本当にホッとしてしまっているため、霞としてはついつい、蛇草をいじめたくなってしまったのである。

 「ははは、あの中で私が唯一笑い話に出来るのは、君だけだったからね」

 兎に角丸く収まって良かった。ただそれだけである。

 「黒野君。実家のこと言いませんでしたね」

 と、千霧がぽつりと呟く。

 「なんだい?実家?」

 霞としては、初耳である。いや厳密に言えば初耳ではなかったのかもしれないが、それは飽くまで黒野鋭児の個人情報の列挙の中であり、改めて切り取られたその一言は、十分な意味があった。

 「彼の実家は、この夏までに手放すことになっております。親類で特に借財のある者はは居ませんが、小さくはありますが、矢張り庭のある旧家で、管理的な問題だそうです」

 「へぇ。そんなところまで調べたのかい?蛇草は矢張り、熱心だね。彼の事に関しては」

 と、少々茶化しながらだが、黒野鋭児の素性をはっきりさせるために、調べたついでに出てきたことなのだ。あり得ないが、自分達の敵対組織に繋がっている人間では、矢張りまずいのである。

 それは、血脈的なものも含めて、全てである。

 「でも千霧どうして、そのことを今?」

 「炎皇と氷皇が、一瞬表情を曇らせましたので……、彼の祖母の遺品整理の下りの時に……蛇草姉様は、お気づきになられませんでしたか?」

 「いいえ……」

 蛇草は、それに気づけなかった自分に対して、残念そうに首を振る。彼女はそれどころではなかったのだ。鋭児がどう返事をするかで、今後の方針が変わるのだから、正直気が休まらなかった。

 「まぁ……人にはそれぞれあるさ。彼が言わなかったんだ。それは我々の詮索すべき所ではないよ」

 確かにそれはそうなのだが、黒野鋭児という人間を見るに当たって、この二人の存在は外す事が出来ない。だとすると、二者がそれに対して、意気消沈してしまうのならば、それは黒野鋭児にとっては、矢張りあってはならないことなのだろうと、千霧は思った。

 東雲家だけが黒野鋭児の家族であって良いわけではないのだ。

 「私も蛇草姉様に拾っていただいた身ですので、矢張りそう言う人間にとって、帰るべき場所の有無は、思いの外重要なのですよ」

 そう言われると、蛇草は親指の爪をかみつつ、自分のケアレスミスに気がつく。黒野鋭児の焔や吹雪に対する思い入れは、彼が唯大切にしたいというその思い入れだけではなく、それ以上彼が失いたくないものだったのだと、言うことに気がつく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る