第1章 第3部 第35話
大人達には妥協という選択肢があり、ほどよく調和を取ってもらわなければ、それはやがて単なる腫れ物にしかならない。組織にはそれが必要なのだ。
鋭児は、それほど深く考えているわけではなく、そんな打算もあるわけではない。
「二人を守るというのなら、君はまず一人で歩ける一人の男として、何かを形にしなきゃいけないんじゃないか?高校に入ったばかりの君には、少し早い話だし、早すぎる話かもしれない。話を持ちかけている私が言うのもなんだが、そう言う機会というのは、必ずしも自分の都合の良い時に訪れる訳じゃない」
「今がその機会だって言いたいん……すか?」
「私にとっても、蛇草にとっても、君にとっても、そうなれば良いと思うけどね」
そう言われてしまうと鋭児は沈黙してしまう。
これで一体自分でなにを掴み取ったというのだろうか?
自分が探し出して掴み取った選択肢でも、未来を見据えた上に手に入れた選択肢でもない。偶然が連なっただけの結果ではないか?と、矢張り考えるのだ。
しかしそうではなく、チャンスというものは、思わぬ所からやってくる事もある。それを手にするか手にしないかは自分次第である。それが選択肢なのだ。
ただ、鋭児の中には、霞の言う、『自分の道を歩けないものが、どうやって他人を守るのか?』という、その一言が、妙にしっくりの胸の中に残った。
鋭児が下を向き、少し考えていると、霞が手を出す。蛇草ではなぐ千霧が、それを彼に手渡す。
これに関しては、蛇草も驚きを隠せない。それは本来自分の仕事であり、霞の仕事ではないのだ。それに、当主直々にそれを手にすると言うことは、余程の事態で無い限りあり得ない。ましてや、ただ能力が高いだけの一高校生に対しての行為として、あまりに行き過ぎている。
出過ぎたまねをした千霧は、蛇草に対して、頭を下げる。
「この期に及んで、君の選択肢はまだ変わらないのかな?」
「最後通告……ですか?」
「はは。どう取るかは君次第さ。しかし……」
其処まで霞が言いかけると、鋭児は手を出す。俯いたまま何も言わず手を出したのだ。
その態度はとても、六家当主にたいしてすべき行為ではないが、それはある意味黒野鋭児だからこそ許された行為なのかもしれない。
そう、何も知らない彼だからこそ、許された行為だということだ。
それは、東雲霞という男の度量を表してもいる。
焔は、鋭児よりも少し深く俯いたまま、彼の横に座っており、その隣の吹雪、つまり霞の真正面に座っている彼女は、少し伏せ目がちで、うつむき加減になりながらも、周囲の空気を感じつつ、沈黙を保っていた。
「契約書は、何度も読んでる。俺は頭が良い方じゃない。けど、万が一においての補償は、ちゃんと読んだ。俺に家族って言える人が居るなら、多分この二人だと思う……。それでいいっすか?」
「留意しよう」
鋭児は、その一言でサインをする。
ただ、納得していたわけではない。十分考え抜けたわけでもない。だが、自分の為にどれだけの人間が動いたかという事くらいは解る。
昔の自分なら、納得の行かない焔の土下座などは、当に全て放棄して、そこから達去るに十分な理由だったに違いない。
兎に角胸がズキリと痛む。焔が土下座など鋭児の中では、在ってはならないことだった。
まるで自分が駄々を捏ねている子共にしか思えてならない。
炎皇と呼ばれる地位にある彼女の土下座は、決して安い物ではない。短くも濃密な付き合いで、それは理解出来ている。日向焔は、打算で頭を下げる女ではない。唯子共のように純真無垢な彼女が、一心に黒野鋭児のためだけを思い、必死で下げた頭なのである。そのためなら、自分達の関係も度外視なのだ。その気持ちが鋭児には堪えた。
吹雪もそうだ。焔のように泥臭くはなかったが、彼女の一礼には、鋭児の非礼を詫びるためのものがあり、彼を唯思い、その行く先を唯願い思っている。
「蛇草?」
そう、黒野鋭児はサインをした。それは、東雲家との契約を意味し、鋭児と蛇草、そして霞は、主従関係となる。
「あ、はい」
蛇草は緊張しつつ、一つ呼吸を置き、整える。
「契約書にも書いてあるけど、鋭児君は、高校卒業と同時に東雲家御庭番、私鼬鼠蛇草直属の親衛隊に所属し、側近とする。加えて次代頭領補佐とする。在学中は学生とし、または東雲家の一員として、恥じぬ振る舞いを行うこと。任務参加においては卒業までは、当人の自由意思とする」
要するに、鋭児は東雲家の御庭番に入るが、学生の間は自由にしてよいということだ。次代頭領とは、鼬鼠翔の事を指す。最終的には、彼と共に、東雲家を守護せよということが、この契約の内容である。
「あと、君との約束と、加えて私とのコレも、忘れないでほいいかな?」
と、最後に霞は悪戯っぽく笑みを浮かべながら、お酒を飲む仕草を見せる。ただ、鋭児は頷きこそするが、感慨深く言葉で返事を返す気にはなれなかった。
「近々翔君とも話をしないと、アンフェアになってしまうから、頼むよ?蛇草」
「あ、はい。承知いたしました」
と、蛇草は霞に対して深く一礼をする。敬意もあるが、今回の件に関しては完全に、仕事を奪われてしまい、頭が上がらなくなってしまっている。勿論そうなってしまった責任は、鋭児にもある。
鋭児にも――ということは、つまり押し切れない蛇草にも責任が有ると言うことである。蛇草はのんびり構えていたわけではない、少なくとも背中の鳳凰が人目にさらされるまでは、鋭児は単なる優良株であり、特別な存在ではなかった。
彼には、まず学生としての本分を素直に全うしてほしかったという彼女の気持ちもあるのだ。
ただ、今回の一件で、どれだけ鋭児の鳳凰が人目に晒されたのかが解らない以上、蛇草が必要だと認識した人材を、むざむざ流出させるわけには行かないだろうというのが、霞の判断だった。
それで鋭児が頷くかどうかは解らなかったが、そこは矢張り男同士というものだ。
鋭児がそう言った関係に特に弱いのは、矢張り彼が幼い頃に両親を亡くし、目上のと言えば叔父くらいなもので、こうして腰を落ち着けた存在が、居なかったためでもある。
だから、鋭児は重吾や霞のように、腰を落ち着け、自分では理解出来ない道を示してくれる存在に対しては、どうしても閉口したとしても、一歩引いてしまうところがある。
これは、吹雪や焔では不可能な、年上の男性の仕事とも言えた。決して二人を軽視しているわけではない。
「それでは、食事にしよう。今日は彼の就職祝い……とでもいうのかな?」
「……はい」
これ以上、疑念に駆られていても仕方が無い。鋭児は席を立ち、本来自分の座るべき場所に座り、それぞれが着席する。
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