第1章 第2部 第16話

 時間は、すっかり夕食時に相応しくなるが……。

 「鍋……なんすか」

 鍋の内容はキムチチゲである。

 「ほら、やっぱり大勢で仲良く食べるなら、鍋がいいじゃない?」

 吹雪がにこりと微笑む。この人のこういう微笑みは本当にズルイと鋭児は思う。焔なら一言二言言って、二人で騒ぎ立てるところだが、綺麗な顔で涼やかに微笑まれてしまうと、もうそれが一番正しいのだという、錯覚を覚えてしまう。

 軈て、美箏の父、つまり鋭児の叔父が姿を現すが、そこにはよく冷えた缶ビールが一ダースほど、両手に分けて持たれていた。

 「まぁ、鋭児だけだと思ったから、冷蔵庫にある程度は冷やしていたんだが、まさかこんな美人の彼女を二人も連れてくるとは思わなかったからなぁ、追加支援物資!と言ったところだ!」

 鋭児の叔父の名前は秋仁といい、四十を回った頃合いの程よい中年である。彼は鋭児の理解者であり、酒を教え張本人でもある。

 悪いことは、酒と一緒に洗い流してしまえというのが、彼の教えで、鋭児の飲みっぷりはまさにその教えのたまものだ。

 「パパ!何考えてるの!!」

 「ん?何、堅いこというな!オマエ、ますますアイツに似ててきたな……」

 秋仁は、我が娘の目の前で、鋭児や焔にビールを振る舞い、最後に吹雪を見ると、吹雪も遠慮しないと言った様子で、ビールを受け取る。

 どうやら吹雪もいける口だと言うことが分かり、今の鋭児には理解者が居ると言うことを知りうるのだった。

 美箏からすれば、横暴な焔と違い、表面的に淑やかな吹雪が、社会のルールに逸脱した行為を平然と行うことが信じられなかった。

 期待を裏切られた感じが否めないが、仕草は確かに上品なのだ。

 「美味しい」

 と、にこやかに微笑む彼女のその姿は確かに上品であるが、やはり何かが間違っているのだ。

 「悪いな鋭児……」

 鍋をつつき始めた頃合いに、秋仁が本当に申し訳なさそうに、口を重く開く。

 「あ……いや。叔父さんには、随分世話になってますから、んな、謝られても……」

 鋭児が一目置いているこの叔父というのは、焔や吹雪から見ても、やはり好感が持てた。特に焔は、鋭児からも横柄な口をきかれているだけに、彼が目上の人間に対して、そういう言葉遣いをするのだと、知ることになる。

 鋭児は乱暴で無鉄砲で頑固なのだが、叔父の決めた事に対して異論はない。

 その横で美箏も少し辛そうな顔をしている。この事情には彼女の進学の件も絡んでいるだけに、本人も言い出しづらいらしい。

 何時もなら、発破を掛けたり茶化したりしそうな焔なのだが、こういう場面では、黙って静観している。静かにそして、さり気なくお肉をひとつかみして、小鉢に取ってから、口の中に放り込む。

 「ちょっと、焔、豚肉もっていきすぎ!」

 「ケチんなよ!まだ、有るんだろ?」

 横で、吹雪との細かいやり取りが始まる。

 「ほら、鋭児クンも、美箏ちゃんも、食べよ?鋭児クンの久しぶりの帰宅なんだし」

 吹雪は沈み掛けた空気に対して、努めて明るく振る舞い、取り箸で具材を取り、鋭児や美箏の小鉢に、それらを放り込んでゆく。

 「俺、ちょっと満足してんすよ。この家がなくなるってのは、今考えると、やっぱお袋やオヤジ、婆ちゃんとの思いでとか記憶とか、無くなりそうで、シンミリしちまうけど、こうやって、焔さんや吹雪さんが一緒にいて、帰ってきたっつーことは、それはそれで俺の思い出になんのかなって……さ」

 鋭児はそう言って、満足そうに吹雪の取り分けてくれた小鉢の白菜を食べてはビールを飲む。

 「お!鋭児のくせになんか前向きっぽいこと言ってんじゃねぇかよ!」

 と、騒がしい焔が立ち上がり、鋭児の後ろから抱きつき、何故かチョークスリーパーをする。

 「ちょ!焔さん!何してんすか!ゲホ!!」

 危うくおかずを喉に詰まらせそうになる鋭児だが、それよりもTシャツ一枚で、尚且つノーブラの焔の胸に、鋭児の後頭部が押し当てられている状態に、秋仁の方が、少し傍観気味になってしまっている。

 何とも羨ましいシチュエーションだが、鋭児とのそれは、兄弟のじゃれあいのようにも見える。

 それにしても、座ったままとはいえ、鋭児がもがいても、焔のチョークスリーパーはがっちりと決まっており、それでいて、鋭児の首を完全には絞めていない。だが、外れそうにもないほど、きっちりと決まっている。絶妙な力加減である。

 鋭児がついに観念して、焔の腕をタップすると、さすがの焔も鋭児を解放する。

 「もう!焔は!」

 「ああ?オマエ、鋭児の野郎も、俺のこの豊満な胸の感触を味わうために、態と振り解かなかったっつー、スケベ心を分かってねぇな!」

 「ちげーよ!」

 しかし、確かに焔の言うとおり、後頭部には焔のフンワリと柔らかく、それでいて張りのあるバストの感触が残っていて、想像すると顔が赤くなってしまう。

 焔のバストの感触は、もういい加減日常のことなのだが、後頭部ごしというのは、新たな世界の発見である。

 焔のあまりの節操のなさに、美箏も赤面しながらワナワナと震えているが、それでもあまりにも近すぎるスキンシップに、少し悶々とした思考をしてしまう。

 「どうだ?鋭児。生の時とは違って、布越しってのも乙だろ?」

 といった瞬間。自分を落ち着かせようと、ビールに口をつけた鋭児が、それを吹き零してしまう。確かに焔のヌードは見慣れているし、振れ慣れているが、今このタイミングでそれを思い出させられてしまうと、流石に動揺を隠しきれなかったようである。

 「生!生って鋭児、オマエ!それは、ウラヤマ……いや、けしからんだろ!」

 「だろ?鋭児のヤツ、毎朝俺の胸の上で目を覚ましやがるんだぜ?」

 「○△※×♂+♀=◎!!」

 もう美箏はパニック状態である。親分肌の焔とそれに従順に従う鋭児が、仰向けになった彼女の胸の上で心地よくも、隠微な眠りから、目覚める情景を想像してしまう。何故か、そんな二人の表情はウットリとしており、可成り美化されている。

 「鋭児オマエやるなぁ……」

 秋仁は、赤面しながら、早熟な関係に思わず関心してしまいつつ、焔を見ると、彼女は何とも自慢げに胸を張り、どや顔をしている。

 「わ……私だって、一晩鋭児クンと、裸で抱き合って寝たもん……」

 と、ぼそりと自己主張をする吹雪の声は、思ったより全員に聞こえて、吹雪は慌てて、滑らした口を押さえるが、もう後の祭りであり、鋭児はテーブルの上に頭を打ち付けて、ショートしてしまっている。

 ある意味、完全なる公開処刑の場となってしまうのだった。

 「オマエ、本当に鋭児なのか?」

 秋仁は、年上の女性二人を手玉に取っているような鋭児に対して、覗き込んでみるが、鋭児はもうテーブルの上に頭を転がしたまま、停止状態になっている。

 それにしても、焔も吹雪も、互いに鋭児との関係を主張しながらも、気まずい関係にならず、対立する様子も見せない。

 見ている限り、さばさばとした焔が、吹雪を突いて楽しんでいるという雰囲気で、確かにこの二人は見ていて飽きなさそうであると、秋仁は思った。

 「不潔……」

 美箏がぽつりと呟く。本当に小さかったが、全員の耳に良く届く小声だった。

 「みんな不潔です!」

 箸をテーブルに叩き着け、道徳観を主張してみるが、吹雪は驚いているし、焔はキョトンとしている。鋭児と秋仁は、びっくりしており、空気が一瞬静まり帰った。

 「ま、まぁほら、鋭児も男なんだし、ガールフレンドの一人や二人、当たり前だし、みんな納得してるみたいだし……な?それに、おかげで、出てくときより明るくなったっていうか……」

 秋仁は、この二人がいるからこそ、鋭児の雰囲気が良い方向に改善されているのだという主張を、美箏にやんわりと、説いてみるのだが、美箏は暫く何か言いたそうにしている。

 しかし、数分の膠着状態から、思い直して座り直すのだった。この夕食が、この家で食べる最後の食事なるかもしれない。勿論、明日の事もあるので、厳密に言えば、これが、最後の食事というわけではない。そう思い、美箏は気持ちを収めることにした。

 座り直した美箏の横で、焔は、なんの悪気もなく、お日様のような笑顔で、ニカニカと笑ったりしている。

 「しかし吹雪、オマエ何時、鋭児を寝取りやがった?」

 「寝取ってなんかないもん!」

 まるで、自分が鋭児を押し倒したあげく、彼との関係を強引に築いたような焔の言いぶりに、吹雪は顔を真っ赤にしながら、そこまで肉食系ではないことをアピールする。

 吹雪はどうも、焔にムキにさせられる傾向にあるが、焔はそれを悪気無く笑っている。

 何時も恥ずかしい思いをさせられる吹雪は、事ある毎に閉口気味にぶつぶつと文句を言って、顔を赤らめている。これが日常の二人のやり取りなのだ。勿論鋭児も、何度も目にしているやり取りであるには違いない。

 普段物静かそうで、大人の雰囲気を見せることの多い吹雪だが、今の方が、柔らかみのある雰囲気で、ずっと自然な感じだと鋭児は思った。

 「焔さんとガチる前に、アイシングしてもらったんだよ」

 鋭児は涼しい顔をしながら、いつどこで、吹雪と体温を分かち有ったのか?ということを説明する。すると、焔は、パチパチと瞬きしながら、いやにあっさり白状する鋭児を見る。なぜ裸で抱き合うことがアイシングになるのか?ということは、秋仁や美箏には解らない事である。

 「そか……」

 焔は、それ以上のことは言えなくなる。

 あれは、鋭児の暴走と言える行為だったが、それは自分の為であり、吹雪もまた焔のために鋭児の気持ちに答えたのである。

 「拗ねんなよ……」

 「拗ねてねぇ……」

 鋭児と焔は、ぼそぼそとした掛け合いをしながら、似たように小鉢の中の具材を口の中に書き込んでみる。そんなやりとりのためか、妙に静かな空気が流れる。それは決して殺伐としている訳ではなく、当たり前のような掛け合いのように思えた。

 それから、一度だけチラリとお互いを見るのだった。そして同じように、クスリと笑う。

 こればかりは、焔と鋭児、そして吹雪にしか解らないやり取りだった。

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