第1章 第1部 第32話

 何時間経っただろうか。扉のノック音がする。しかし、そのノック音は鋭児の部屋のものではなくて、焔の部屋のものだった。広い焔の部屋だ。扉をノックしたくらいでは、中まで音が届かない。

 すると、ノックをした誰かが、扉を開け許可無く部屋に入る。そして、真っ暗な部屋の中、携帯電話のバックライトの明かりだけで、彼女のベッドルームにまでやってくるのだった。

 「なんで、着信拒否なんすか」

 焔のベッドの横に腰を掛けてそう言ったのは鋭児だった。ただし、携帯のバックライト以外何も明かりがない状態で、あまり周りがよく見えない状態だった。

 あまりの静けさと暗さのため、本当に其処に焔がいるのかどうかも解らない状態だというのに、鋭児は迷い無くそこにきたのだ。

 制服姿のまま、窒息してしまうのではないかと思うほど、枕に顔を埋めて俯せになって眠っている焔は、鋭児の問いに答えを返す事もない。

 「多分……焔さんが正解だった」

 鋭児は一言そう言った。だが、焔は何も言わない。

 「晃平が、オレを勝てるようにしてくれてたんだ。じゃなきゃ、間違い無く焔さんの言う通りになってた……」

 それは鋭児の素直な気持ちだった。後悔先に立たずという言葉がある。万事において、過去における分岐点を歩き直す事が出来ない。全ての選択が今現在の自分なのだ。だがその選択肢ですら、思うが儘にならないことが多々あり、導かれるべくして、そうなる選択肢もある。

 「謝るなら早いほうがイイって思っただけなんだ。携帯出てくれねぇから、直に謝りにきた」

 鋭児は腰を上げようとする。が、そんな鋭児の手を焔が握る。鋭児の手は相変わらず包帯でグルグル巻きである。焔はベッド脇にあるシェードランプのスイッチを入れる。今まで真っ暗だった部屋の中にほんのりと、オレンジの灯が点る。

 「ちげーんだよ。オレはビビってたんだ……すげービビってた……」

 「焔……さん?」

 「詰まらねぇ意地を張った馬鹿一人が、命を落とすのが怖くて、ビビったんだ」

 「そんな……」

 焔は怒っていたのではなく、酷く自分を責めていた。確かにあの場面で、鋭児が鼬鼠に負けたとしても、静音は命そのものを取られるわけではない。しかし、鋭児は鼬鼠に負ける瞬間の場面を理解していなかったのだ。

 もしあの時、空から降り注ぐ無数の鎌鼬が、本調子の鼬鼠が放っていたものならば、鋭児は誰の庇護を受けることもできないまま、惨殺されていたに違いない。

 それくらいの事があったとしてもおかしくはなかったのに、現実を目の当たりにして、初めて顔が青ざめる。それが、この学内での、力の差という意味なのだ。

 しかし、焔がなぜそこまで、この勝負に拘ったのか、鋭児には理解出来なかった。焔はそれについて話そうとはしなかったが、彼女が握る手が、無言の理解を求めている。

 あの散歩の時に言った。「解れ」と、言った言葉が、鋭児の脳内でリフレインする。

 「今日のオレは、0点だ……」

 焔が嘆くようにそう呟いた。それにしても酷く声が掠れている。寝起きだからだろうか?確かに随分夜中だ。そうであってもおかしくはない、だが鋭児は、何となく焔が起きているのではないかと思ったのだ。尤も、今焔がどこで何をして、どういう状態にいるのか教えてくれたのは、吹雪だった。

 「オレも落第点……だな。今日も……」

 焔が、その言葉で伏せていた顔を鋭児に向ける。ベッド脇のシェードランプが、焔の顔を照らすが、酷く目が腫れぼったい。焔は泣いていたのだろう。

 鋭児は言葉にならない。確かに焔も人間だ。落ち込むこともあるだろうし、失敗もあるだろうが、鋭児の命は無事此処にある。しかし、焔のその表情は、一つの危機を脱した安堵感で作られたものではない。酷く泣き疲れた表情をしている。其れは恐らく今日の出来事がさせた事ではないのだということは、鋭児になんとなく解った。

 思い出す度に、幼い日に自分も味わった、途方に暮れてどうしようも無く泣きじゃくった後の憔悴しきった子供のような表情でもある、焔という性格が、その中に漸くの笑みを浮かべているが、酷く感傷的な状態になっているのは確かだった。

 「なんか……あったんだろ?昔……」

 鋭児はこの時、焔を子供の頃の自分と強く重ねた。

 「なんで…………お前そんなこと聞くんだ?なんか知ってるのか?」

 焔は鋭児の手探りな発言に対して、怒ることも警戒することも嫌悪感を抱くことも無かった。いや、正しくはそんな感情ですらぐちゃぐちゃに混ざってしまっていて、どうでもよくなっている様子だった。

 「知っちゃいない……けど、なんか……、オヤジとお袋が死んで、暫くのオレと、なんか似た顔だなって……、だからきっと、そんだけ泣くだけの理由って、有ったんだろうなって……思ってさ……」

 「そか……」

 そう言うと、焔の表情は、抑えられない悲しみであふれかえった子供のような表情で、涙を浮かべ始めた。何とも胸の奥を抉られるほど、悲しそうな焔の表情に、鋭児は心が苦しくなった。大雑把で元気だけが取り柄のような焔とは、全く逆なほど、今にも壊れてしまいそうな顔をしている。そんな彼女に掛ける言葉は、もう何もなかった。

 そんな焔は、再び枕に顔を埋める。

 「一光のクソ馬鹿野郎!!!……」

 「え……」

 「意地張って死にやがって!お前なんて0点だぁぁ!」

 俯せになったまま、腹の底から声を出した焔は、臆面もなく大声で泣き始めるのだった。そんな焔の手は、鋭児の怪我のことも考える余裕がないほど、ぎゅっと彼の手を握り続けて泣いている。

 一光は、先代の炎皇である。そして死んだ。意地を張って死んだのだ。この学園で行われた決闘での死は、事故死に等しい。いや、公的なルールが介入できないだけ、其れよりも命の尊厳は遙かに低い。一光がどういう状況で死んだのかは、鋭児には解らない事実だ。

 一光にとって、その尊厳は、その尊重より軽いものだたのか。しかし焔にしてみれば、尊厳より尊重は軽いものだ。彼女は未だに一光の選択肢が理解出来ずにいるのだろう。

 戦いのレベルこそ違うのだろうが、焔は鋭児に、酷くその事を重複させたに違いない。しかし、焔は合宿と称して、自分の部屋にみんなを集めた事実もある。

 彼女の中で、一つの天秤がずっと揺れ動いていたのだろう。

 

 鋭児は、焔に手を握られたまま一晩を過ごす。

 

 やがて朝が来る。土曜日の朝だ。特に学業に勤しむ必要のない、許す限り惰眠に没頭できる朝だ。だが二人の朝は、そんな安易な至福に満たされるほど、無邪気なものではなかった。

 焔は、鋭児に抱きついたまま、散々に泣きじゃくって眠りに就いてしまい、鋭児はそんな焔の分まで心を沈めていた。ただ、ヒヨコのようにフワフワとした焔の頭をずっと撫で続けている。

 この部屋で焔がどうしているかを、察した吹雪ならば、焔の心境が理解出来ているだろうし、焔がこうして、泣きじゃくることがある事も知っているのだろう。

 そして、「俯せになっている焔は、大人しい」と、言っていた吹雪の言葉の意味がわかる。焔は大人しいのではない。声を出さずに泣いているのだ。時折一光の事を思い出しては、こうして一人で泣いているのだろう。

 暫くして、焔が目を覚ます。酷く腫れ上がった目を、漸く開く。そして鋭児の胸に頬ずりして甘えてくるのだ。本当はなによりそうして甘えたい相手がいるというのに、その相手がそこにいない辛さが、鋭児にはよく解った。今この瞬間は、その身代わりでしかない。

 「先輩の頭、気安く撫でんな……」

 頭を撫でられていることが、焔には気が召さないのか、そうでないのか……といった、微妙名言い方だった。

 それでも鋭児は言葉にせず、フワフワと焔の頭を撫でる。代役でも良かった。焔に対してどれほどの感情があるのか、この瞬間は自分でもよく解らなかった。何となくそうしてやれるのが自分しかいないような気がしたのだ。言わば、鋭児にしか出来ない事の一つ……なのだろうか?

 「一光さんて、どんな人だよ……」

 泣き止んだばかりの焔に対して、その質問が良いかどうかは解らなかった。

 「強かった。すげー強かった。高校入るまで、やけっぱちな俺に、前を向かせてくれた……。戦闘馬鹿でよ……、人を殴り倒しておいて『熱いか!?熱いだろ!?』なんてよ。馬鹿だろ?」

 「なんか、今の焔さんみたいだな……」

 「でも、マジ熱かったんだ……アイツの拳はアツかった。負けても負けても楽しかった。気がつけば、二学期の終わりには、一年筆頭にまでなってるほど、一光に打たれまくった。でも熱かった……、散々吹雪に心配ばっかかけてたのが、ウソみてぇに、生活が変わった」

 「スゲェ人……だったんだろうな」

 「ああ、一光がいればきっと、お前のことも可愛がってくれたと思うぜ。それにお前は多分……俺より強くなる……」

 其処には、なんの掛け値もない焔の本音が見える。そう言う嘘やハッタリをつく人で無いことは、もう解っている。

 「え……」

 だからこそ、鋭児はいつ頃になるか解らないその言動に、驚きを隠せなかった。

 「一光が俺にもそう言ったんだ。だから、俺は、一光が俺に出来なかった事をお前にしたかったんだ、多分……」

 「………………」

 「お前を神村の所に連れて行ったときに、なんかピンと来たんだよ。波長っつーか。ああ、一光の奴は、俺をこういう目で見つけたのかって。宝物見つけた!って……なんか嬉しいよな。自分を超えるかもしんねぇ!ってそう思った瞬間、ゾクッと来て……。まぁ今の俺が一光を超えた訳じゃねぇが……、大学に入る時に、再度覚醒儀式受けて、俺はさらに力を上げて、お前が三年になるまで、目一杯扱くからよ。楽しみだな……」

 焔は無邪気に語りながら、想像を膨らませ、鋭児の胸に頬ずりをする。彼女は鋭児を見つけて一つの視点を得たのだろう。そしてそこには、一光と成し得なかった約束があるのだ。

 「でも、お前が嫌だっつーんならよ。俺は無理強いしねぇ」

 「そこまで言って、それ……卑怯だろ……0点だろ」

 「なに、人の十八番パックってんだよ。一光のこと聞くなら、そこまで聞くのが筋ってもんだろ?」

 と、この言葉にはぐうの音も出なかった。そこで否定してしまったのなら、それこそ興味本位で、一光の事を聞いたことになる。相手の事情を知るということは、それだけの重みを受け止めなければならないということだ。

 だから焔も吹雪も、鋭児の額の傷について、何も聞こうとはしなかったのだ。聞けないが痛みが有ることを知り、語らずに優しく慰めてくれてたのである。

 「で、吹雪にするのか?それとも、静音にするのか?」

 今度は間違い無く面白半分で、鋭児に切り込んでくる。徐々にいつもの焔らしくなってきつつはある。散々に泣いて、溜まっていたモノをはき出せたのかもしれない。それに、一光の事を話せたのが、彼女にとっての荷物を一つ、降ろすことが出来たのかもしれない。

 「腫れぼったい目で、ニヤニヤすんなよ。それに静音さんは……そんなんじゃねぇし」

 「吹雪は?どうだ?アイツ尽くタイプだと思うぜ?」

 と、焔は淫靡な表情でニヤニヤしながら、さらに鋭児の顔に焔の顔が近づく。どんどん元気になってくる。だがしかし、そうなると少し迷惑にも感じられる気もしないでもない。

 「それなら、焔さんがいい」

 「え?」

 「泣いたり笑ったり怒ったり拗ねたり、元気があったり無かったり……選べってんなら、そんな自由な焔さんが一番いい」

 「バ……バッキャロー。テメェ、一光の壁は高ぇぞ?ショボイクセしやがってデケェこと言いやがって」

 といいながら、あまりに真っ直ぐな鋭児の言葉に、焔は照れながら嬉しそうにしながら、鋭児の胸に額を当てて、ドンドンと、拳で胸板を叩いてくる。

 「やっぱ、ダメだ」

 焔が鋭児の胸を叩くのをやめて、声の質を重くした。

 「どうして……」

 鋭児の声は落ち着いている。とくに失望感もなかった。そもそも答えに期待をしての言動ではないのだ。焔がフィーリングで感じているように、ここ数日でも感じている焔とのこの距離感は、鋭児にとっても心地よいものなのだ。それが喜怒哀楽のどれであってもそうであることが、この一晩で解ったのだ。

 手ひどい傷を負い、それが生死の境目であった決闘の後での一夜で感じた感情でもある。この人の喜怒哀楽が一番心に響くのだ。それは論理的な理解の次元とは少し違う。焔がそのシンパシーを感じているのかは別だ。

 「俺は一光に全部くれてやったもんよ。ヘヘ……、吹雪みたいに、やれるもんねぇよ」

 赤裸々で生々しい発言だ。胸が痛むより赤面してしまう鋭児だった。焔らしいといえば、焔らしい猪突猛進ぶりだったことだろう。

 「ふぅ…………ん……」

 急に鋭児が、それっきり黙りきってしまう。そして、急に胸が沈んだのだ。

 「鋭児!?」

 焔は直ぐに鋭児の胸に耳を当てたり、彼の呼吸を確かめる。一度深く落ちたと思った旨が、空気を取り入れて再び膨らみ、呼吸をし始めるのだった。

 「ばっかやろう……眠っただけじゃねぇか……」

 一発殴ってやろうかと思った焔だったが、直ぐにそれをやめた。そして、安堵の表情を浮かべる。考えればあれほどの怪我をしたというのに、夜中に焔の部屋に訪れ、一晩中泣き明かすのに付き合い、朝には頭を撫でていた鋭児である。顔も血の気があまりないし、本当はもっと眠るべきなのだ。

 「そっか、お前はそういう奴なんだよな。解るよ……。目が覚めたらお前の話……しろよな」

 焔は、一晩鋭児に付き合ってもらった分、彼の睡眠に付き合うことにした。

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