第2話 小悪魔
カーテンの隙間から射し込む朝陽が顔全体を直撃する。眩しさに顔を顰めながら広末直人(21)は目を覚ました。
「あーっ、アッタマ痛ぇ……。飲み過ぎだ……。あかん……。もう少し寝るべ……って、喉が渇いたな……」
直人はベッドから出て、ヨタヨタと冷蔵庫まで歩いた。部屋は、一人暮らしの男子大学生にしては小綺麗にしてある。いつも、床に何かが散らかっているということはない。だから、これまで足元を気にしながら部屋の中を移動したことはなかった。だが、今日は何かにつまづいた……、というよりも何かを軽く蹴飛ばした。
「イッテェ……。ん? なんだ?」
直人は、眠い目を擦りながら足元に目をやった。白い塊のようなものが視界に入る。
「あれ? なんだ、こりゃ?」
その白い塊は、分厚い辞書ほどの大きさの本であることがわかった。二日酔いとはいえ、記憶をなくすほど泥酔したわけではない。
「あー、昨日拾った本かぁ……。結局、電車の中でも読まなかったな……。持って帰って来ちまった……」
昨日拾った本であることを思い出した直人は、一瞥をしただけで再び冷蔵庫に向かい、中から炭酸のペットボトルを取り出した。
「二日酔いには、これが一番だ……」
スクリューキャップを外すと、”プシュッ”と微かな音とともに冷たい飛沫がまった。直人は、ペットボトルの中で細かな気泡を次から次へと弾き出している炭酸水を、渇いた喉に流し込んだ。
「ん、クックゥーッ……」
両目をグッと閉じた顰めっ面で、溜め込んだ息を一気に解放させた。
「くあーっ、生き返った……」
直人はそう叫ぶと、ペットボトルを持ったまま再びヨタヨタとベッドに向かった。そして、ベッドに腰をかけ、炭酸水をもう一口あおった。
「んあぁーっ! うめぇっ……」
誰もいない部屋に、直人の大きな声が響く。
ふと、直人は先ほど蹴飛ばした本に目を向けた。真っ白なその本は、大きさの割には軽そうに見える。直人は、昨晩、本を手にした時のことを思い返した。
「そう言えば……、なんだか読めない字がたくさん書いてあったな。しかも、筆字だったよな……。挿絵もあったな……」
直人は、ペットボトルをベッドサイドにある小さなテーブルに置き、
「んっこらしょっ……」
わざとそう言って立ち上がり、無造作に置かれている本のそばまで来ると、しゃがみ込んで表紙をじっと睨んだ。
「呪……、祈……、印……、真……言……。なんじゃこりゃ? わっかんねぇなぁ……。古いんだろうなぁ……、これ。でも綺麗なんだよなぁ。それにやたらと白い……。新素材? んなわけないか……」
手に取り上げてみると、やはり軽い。そして、真っ白で和紙のような触感と質感の本は、どう見ても真新しく見える。筆字の字体から彷彿させられる古めかしさは微塵も感じられない。
「あれっ? 昨日、拾ったとき……。表紙は白紙じゃ……、気のせいか……。まいっか……、しかし、いったい、なんの本なんだろうか……。本というより、ノートか? 筆書きだしな……。どれ……」
直人は首を傾げ、ブツブツと独り言を言いながら表紙を捲った。
「うっわっ! やっぱり読めない……。ミミズが這ってるような走り書きだ」
そう言うと、続け様に数ページを飛ばすように捲る。
10ページほど捲ったところで、直人の指は止まった。
「お、こういう書き方なら読める……。臨……。この字……、確か、ここから見たんだな、昨日は……」
『臨』と言う文字が、ページの上半分に大きく書かている。そして、下半分にはスペースいっぱいいっぱいに挿絵が描かれてあった。
それは、両手の指を内側に組むようにして、左右の人差し指だけを2本起立させている状態の挿絵であった。
次のページには『兵』とあった。挿絵は、先ほどの挿絵にあった左右の人差し指にそれぞれ中指が絡んでいるような状態で描かれている。
続いて『闘』、『者』、『皆』、『陣』、『烈』、『在』、『前』と、すべて同じように上下に分かれて文字と挿絵が記されていた。
「あー、これこれ……。どっかで見たか聞いたか、記憶があるんだよなぁ……」
直人は天井を見ながら首を傾げた。
「ググってみるか……」
本を閉じ、直人は再びベッドまで行った。そして、本を枕元に放り、今度はそのままベッドにダイブした。
枕の下に潜り込んでいたスマホを取り出した直人は、うつ伏せのまま肘をつき、スマホを操作し始めた。直人の指と目が、同じようなタイミングで上下する。
「お、これこれ……。ふん……、んー、なるほどね……。で、呪いかえしが……、オンバジラギニハラジウハタヤソワカ……か……、で、この指のかたち……と」
直人は、軽く頷きながらスマホを操作し続けた。
「よし、覚えたっ! なんだかスラスラ頭に入るな……。前世は祈祷師かぁ? なんてな」
直人は、本を閉じてスマホを放った。そして、ベッドに大の字になり、
「臨兵闘者皆陣烈在前、オンバジラギニハラジウハタヤ……」
そう呟き、指を次々と組み替えた。
『ピキッ』
と何かがひび割れるようなクラック音が聞こえた気がした。
「ん? なんだ?」
直人は上半身を起こし、辺りを見回した。しかし、これといって音の正体の見当はつかない。
「気のせいか……。タイミングいいからなんか気味悪いような……。まぁ、なんてことないか……」
直人は大きく伸びをし、ベッドから降りた。そして、頭をガシャガシャと掻き毟り、
「シャワーでも浴びっか……」
急速に興味がなくなったようにそう言って、シャワールームに向かって行った。
この部屋の小さな机に、ノートと本が積み重なっている。その山に埋もれて、まだ新しいダイバーズウォッチがあった。そして、そのダイバーズウォッチのフェイスガラスにヒビが入っていることに直人が気付くのは、クラック音が聞こえたことすら忘れてしまった数日後の事であった。
直人がアパートを出て30分ほどで新宿に着いたとき、19時を少しだけ回っていた。直に新宿に来たのだから、大学には行っていない。だから、もちろん斎藤勝(21)ともまだ会ってはいない。
勝からは、17時にメッセージが来ていた。
『ずっと学食にいたんだぞ。昼には来なくても、いくらなんでも夕方までには来るだろ。酒は抜けたんだろ? 今日は合コン、新宿西口交番前に19時集合。欠席許さず! 来いよ』
「ったく……。俺は学食行くなんて言ってねぇし……。面倒くせーなぁ……、これから新宿……。でも……、合コンかぁ……。行くかぁ……」
白い本を手にしてから、ベッドに横になりながら、直人はずっと携帯を操作していた。時折、白い本を食い入るように覗き込み、挿絵にあった指組みを真似したり、ブツブツと独り言も繰り返していた。
そんな中、ちょっと一息ついたところで、勝からのメッセージが来たのだった。
直人は自分でも、こんなに長く何かに集中したのは久しぶりだ、と思った。
(受験勉強以来か? いや、あの頃でさえ、こんなに長い時間集中したことはなかった)
直人は何やらおかしくなり、妙な達成感で気分が高揚してきた。
仰向けになって、勝からのメッセージをあらためて読み直し、
「よっしゃ、いっちょう合コンでも行って、バシッと決めてやるかっ!」
直人は大声でそう言った。
だから、新宿に着いたときは、これから始まるであろう合コンに期待で胸が膨らんでいた。
(今年に入ってからの合コンは、結構、悲惨だったな……。俺だけ一人で帰るって、何回あったろうか? ちょっとおかしくねぇか? って、俺がおかしいのかね……。今日は、当たりだといいのだけどな)
中央線ホームから西口改札を走って交番前まできた直人だったが、突然立ち止まって辺りを見回した。
(ん? あれぇ?)
19時の交番前は、確かに待ち合わせをする人たちが大勢いた。しかし、直人が期待するようなメンツは、誰一人見当たらなかった。
「おっかしいなぁ……。まだなのか……、それとも置いてけぼりを食らったか、それとも……ハブられたかっ?」
直人が唇を噛んでそう呟いた時、ポケットに突っ込んだスマホが微かに震え、メッセージアプリの呼び出し音が鳴った。
『悪い……。赤札酒屋の歌舞伎町店に先にきてる。事情は後だ。早く来い』
「チッ……。なんだよ……、少しくらい遅れたからって、先に行ったんかよぉ……」
直人はスマホをポケットにしまい込んで、足速に歩き始めた。舌打ちはしたが、その顔に怒りの表情はない。普段の直人であれば、面倒臭がりな性格も重なって、今回のようなことがあれば、もう集まりに合流することはなかった。
だが、今日は違った。自分でも、明確に理由付けできないが、明らかに苦ではなかった。むしろ、楽しい。心が躍るとはこういうことかと直人は思った。
(今日は、何かが起こる予感がする……。可愛い子、二人くらいお持ち帰りできたりして……。あー、どうしようか……、モテまくるかもしれないというこの胸騒ぎ……)
赤札酒屋には、これまでに2度行ったことがあった。歌舞伎町のごった返すような人や雑居ビルの群会の中、2度という回数はその場所をはっきりと思い出させるには決して多い数ではない。だが、その足取りは正確で速かった。
(赤札屋でやった合コンは、勝率100パーセントだからな。まぁ、2度だけど……。だが、これは残り少ない学生生活をエンジョイするためのゲン担ぎだ。俺の学生生活の集大成とでもいうべき……、いや、今日は大収穫祭だっ! んっくっくっく……)
根拠のない自信に背中を押されるように、直人の足は速かった。
「どうですか、お兄さん……。可愛い子、たくさんいますよ。今なら揉まれ放題に揉み放題、サービスタイムの真っ最中。どうですかぁ?」
客引きが、ハガキ大のサービス券を通り過ぎる男たちに素早く手渡ししている。どう見ても高校生くらいにしか見えない若者から、いくらなんでももうそっちの方はといったお年寄りにまで、見境なく捌いている。
直人も流れのついでにサービス券を受け取った。(こんなもの……)とは思いつつも、ついつい内容を目で追ってしまう。イケイケタイム60分5,000円、ねっとりタイム60分7,000円、ガッツリタイム60分……。
(こんな安い値段で……。そもそも最初っから内容なんかないに決まっている。あれやこれや小出しにオプションを追加され、気がついた時にはもう這い上がることができないくらいの値段をつけられているに違いないんだ。こんなのに引っ掛かる奴いるのかよ、このご時世に……。ん? おっとっとぉ……)
意味不明のコース名と料金が書かれたオモテ面とは異なり、ウラ面には、12名の女の子の顔写真がまるで履歴書の写真を集めたように並んでいる。
(へー、全部、本当に在籍している女の子かね……。まさかね……)
直人が疑うほど美形の女の子たちが縦4横3に並んで載っている。
それまで足速に歩いていた直人だが、ペースがいきなり落ちた。
(この子……、可愛いなぁ……。俺好み……)
直人の目は、一人の女の子に釘付けになった。
軽くウェーブのかかったショートヘアがフワッと柔らかく、ハッキリとした目鼻立ちに薄い唇が印象的な女の子だった。その表情は、一見、冷たそうに見えるのだが、右目の目尻にある涙ボクロが、妙に人懐っこい性格と情の深さを醸し出しているよう感じた。
歩くペースが落ちてサービス券を食い入るように見ている直人は、人の流れから浮いて見えた。そんな直人をさっきの客引きは目ざとく見つけた。
「どうすか、お兄さん……。今なら料金表のお値段から25%オフでいいですよぉ……。どうです? 揉まれ放題、揉み放題。フッヘッヘ……」
と、ニタニタしながら寄ってきた。
直人は、我に返り、
「えっ? いや、いいっす……」
ぼそっと返した。
「ちっ……」
客引きはすぐに背を向け、小さく舌打ちをして再びサービス券を配り始めた。
(ちっ、とはなんだよ、ちっ、とは……。あんなんだから皆んなに疎まれるんだ)
直人は、相変わらず誰彼構わずサービス券を配りまくる客引きの後ろ姿を見てそう思った。
立ち止まって客引きの背中を睨みつけていた直人だが、ふと、その男の背中が霞みがかったようにぼやけて見えた。
「ん……」
目に何か入ったか、目脂を取るときのように、直人は人差し指の背で目を擦った。
サービス券を配る客引きの後ろ姿が、普通に目に映った。
「……。なんだ……。黒くボヤけたような気がする……」
そんなふうにも思ったが、
「ここんとこ、飲み会続きだったからな……。酒も疲れも抜けきってないのかね……。しかし俺も好きだねぇ、合コンと聞くと、身体が勝手に向かっていっちゃうもんなぁ」
すぐに頭が合コンに切り替わり、直人は再び足速に歩き始めた。
「お、来た来たー、直人! おっせよー」
店に入って店内をキョロキョロと見渡している直人を見つけた勝が、立ち上がって直人に向かって手を振りながら叫んだ。
同じテーブルを囲んでいた勝以外の男女6人が一斉に勝が手を振る方向を見た。
「よっ!」
直人は少し照れているように首をすくめ、挨拶をするように手を上げた。そして、ほぼほぼ客でごった返す店内のテーブル席の間を身体を捩りながら通り抜け、テーブルまでやってきた。
「どうもー、遅れて申し訳ない……」
無愛想にぼそっと会釈をしながらそう言い、勝に促されるまま一番端の席に着いた。
「さぁさぁ、皆んな揃ったところで、仕切り直して自己紹介から……。あ、その前に、乾杯が先か……。直人、生チューでいいか? 他の人は、まだ、皆んな残ってるから大丈夫……だよね? あ、店員さん、生チューひとつ追加!」
(なんだよ、こいつのテンション……)
直人は、勝を横目で睨みつけた。
その睨みつけた視線の先に、自分に向けられている視線を感じた直人は、そこに視線を移した。
直人に視線を向けてたのは、今回の合コンに参加している女の子だった。ちょうど、勝の隣に座っている。その顔には、優しそうな笑みを浮かべていた。
(お、なんかいい感じ……)
そう思った直人は、瞬時に笑みを送り返して軽く会釈をした。一瞬で作った笑顔にしては、自分でも目一杯好印象な優しい笑顔を振りまいたつもりだった。
それが功を奏したのか、その女の子はもう一段上の笑顔を見せ、会釈を返してきた。
それに気が付いた勝は、直人と女の子の顔を変わるがわるに見て、
「あ、こいつ、直人。俺のダチ……。今日の講義全スッポカシ。でもー、合コンは来るー」
そう言ってビールをあおり、高笑いをした。
「なんだよ、うっせーなー。お前が来いってメールよこしたんだろうがよっ」
直人は、苦笑いをしてそう言った。
「直人君は、何直人君?」
女の子は、さっきの会釈よりもさらに笑顔になってそう聞いてきた。
「あ、俺、広末。広末直人。オタクは? おいっ、勝! 席、彼女と買われよ。幹事だろ⁉︎ 少しは気を利かせろよな」
直人はそう言って、勝の腕を持ち上げるようにして彼を立たせた。
「な、なんだよぉ……、しょうがねぇなぁ……。わかったわかった、ほら……。あ、遠野さん、どうぞ、こんな奴ですが、僕のマブダチです……」
彼女は、クスクスっと笑いながら勝にお礼を言い、自分の飲み物を持って直人の隣に座り直した。
「私は、遠野結衣……、遠い野原の結んだ衣で遠野結衣」
結衣はそう言って、ストローを咥えた。
「そう……。遠い野原の結んだ衣……ね。ふーん……。ってか、何飲んでんの? ストローって、それジュース?」
直人は、半透明の細く白いストローの中を上下に動く赤い液体を見てそう聞いた。
「はいっ、味見すれば⁉」
「ん? あ、あぁ……。ありがとう……」
予想外の結衣の答えに、戸惑いつつもそれを悟られなように、直人は受け取ったグラスに刺さっているストローの先端を素早く咥えた。
素早い行動だったのと、なかばドギマギしていたのでハッキリは覚えていないが、結衣のリップの色が、先端から1センチほどのところに着いていたような気がした。そのことを裏付けるように、口の中にリップの味が広がった。
「ふーん、結構美味いね、これ……」
直人は、口に含んだ液体の味などまったくわからなかった。意識は完全にリップの味に縛られている。
「でしょう? あたし、すきなんだぁ、これ……。たいてい、いつもこれよ」
結衣はそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。そして、直人が咥えたばかりのストローを自分の口唇に近づけた。半開きの唇から微かに覗く白い歯とストローに絡みつくかのように動いた舌が、なんとも言えない妖艶さを醸し出していた。
直人はその様子をじっと目を離さずに見ていた。
(このコ、いけちゃうかもしれねー)
直人の期待は膨らんだ。
(パッチリ二重に細い鼻先……、薄い唇……。俺の好みじゃん……。いいじゃん、いいじゃん……、て、ん? どこかで見たか? んん? 見たような気がする……。待てよ……)
ふと直人は、ここへ来る前にビラ配りから渡された割引券を、思い出したようにポケットから引っ張り出し、テーブルの下でそっと広げた。
(マジか……。ビンゴだよ……。今はメイクをほとんどしていないからわかりにくかったけど、このコだ……。髪型に目鼻立ち……、何よりもこの涙ボクロ……間違いない)
直人の胸は激しく高鳴った。
(落ち着け……、落ち着け広末直人……。ねっとりタイムに揉み放題に揉まれ放題……。うまくいけば、ねっとり揉み……)
「ねえ、直人君、何か飲み物頼んだんだっけ?」
結衣が聞いてきた。
「おう、ねっとり……」
不意をつかれた直人は、思わずそう答えた。
「えっ?」
「あ、あ、いや、生チュー頼んであるよ……」
「あ、そっかぁ、生チューね……」
(かーっ、生って、言うだけで妄想爆発だなこりゃ……)
「う、うん……。ほら、一般ピーポーだから、俺……。最初は生……」
「一般ピーポー……フフフフッ……」
直人は、合コンの最後まで結衣としか話さなかった。席替えタイムを勝が宣言したときも、ガン無視で結衣と話をしていた。頭の中は、結衣を落とすことしかなかった。だから、大して好きでもない映画も、結衣が好きだと言えば「俺も!」と言い、全く興味のなかった作家の小説ですら「あの本は考えさせられた」とすべて話を合わせた。
「なかなかいないんだよなぁ、ここまで話の合う女のコって……。いくら合コンで酒飲んでるからって、俺、こんなにいい感じで話ができるのって、結衣ちゃんが初めてかもしれない」
精一杯、気が合うことをアピールする直人の頭の中は、二人でベッドに入っている映像しか映ってはいないかった。もはや願望が頭の中だけでは具現化されている、と言っても過言ではない。口からはスラスラと適当な言葉が芋づる式に飛び出してくる。
「まぁたぁ、直人君、女の子と喋りなれてる感じアリアリだよ。調子いいことばかり言ってぇ……」
「いや、マジだって……。そりゃ、時と場合で、話盛り上げないとだから、エンターテイナーの俺としては、気分落ちてても明るくガツンガツン飛ばすけど、話が合うっていうか、感性が近いって感じるのは結衣ちゃんが初めてだよ……、これ、マジ……」
自分でも流暢だと思うほど、口から調子のいい言葉が飛び出てくる。
(これだよ、この調子……、最後までこの調子でいけば、絶対落ちる……)
結局、直人は結衣とテーブルの端を占拠し、そこから少しも移動することなく、合コンの中締めの時間が来るまで二人だけで話していた。
店を出た時も、他のメンバーらがこのあとの二次会はどこにしようかと話し合っているのにもかかわらず、結衣を促すようにゆっくりと歩きだし、グループから徐々に離れて行った。
結衣も、そんな直人と同じペースで、他のメンバーのことなど一切気にしていないかのように直人と話していた。
しばらくすると、二人は歌舞伎町から新宿通りを四谷方面へと歩いていた。
「直人くん、みんなと離れちゃったね。どうするの? これから」
結衣は、悪戯っぽく微笑んでそう言った。
「ん-、そうだなー。まだ飲める?」
直人は時計を見てそう言った。時刻は、まだ22時を回ったくらいだった。
「私は全然、大丈夫。直人君は?」
「あ、俺も全然へーき。今朝二日酔いだったけど、もうすっかり絶好調だし。んー、じゃぁ、どっか入ろうか⁉」
(ってか、どこだここ? ここまで来たことないな……。足の向くまま来たけど、ここら辺の店知らないな……)
「どこか、行きたいとこあるのかな? もしなかったら、あたし、この前友達と言ったカラオケルームがこの近くだから、そこ行こうよ。結構、いい雰囲気の部屋だったんだぁ……」
「お、カラオケねぇ……、いいじゃん。結衣ちゃんは、結構、歌っちゃうほう?」
「んー、どっちかっていうとー、聞く方が多いかなぁ……。歌っている人の隣で、聞きながらお酒飲んでるのが好きぃ……」
ここでもまた、結衣は悪戯っぽく微笑んで直人を見つめた。
(いいねいいねー、こりゃ、カラオケボックスの中で、キスは確定コース……、へっへっへっ……、ついちゃってるついちゃってる……。)
直人は、横を向いて小さくガッツポーズをした。
結衣は、相変わらず悪戯っぽく微笑みながら、直人を見ていた。
しばらくすると、思い出したように結衣が声を上げた。
「ほらっ! あそこっ!」
直人は、結衣が指さした方を見た。レンガっぽいタイルを貼り詰めた5階建ての雑居ビルが、そこにはあった。
周辺は雑居ビルばかりだが、そのビル以外はどう見てもオフィスビルといった感じだ。それとは正反対に、飲食店、雀荘、ダーツ等、けばけばしく明るい看板がビルを飾っているのは、レンガっぽいタイルを貼ってあるそのビルだけだった。
「へー、なんか色々入っているな……。でも、カラオケなんて看板は……、なさそうだけど……」
ビルの角の2階から5階くらいまで、小さな電飾の看板がまるで小さな鯉のぼりのように縦に連なっていた。だが、その中に、カラオケの文字はなかった。
「あの上から3番目の看板のお店よ。フフフフフッ、そう、カラオケって書いてないから、初めていく人はなんのお店だか分からないわよね。でも、なんか、よくある感じのいかにもカラオケボックスってお店じゃなくて、落ち着いた雰囲気の部屋で、調度品もお洒落なのよね」
結衣が相当気に入っているように見えたため、直人は素直に受け入れた。もともと、この辺りで行ったことのある店なんかなかったし、周囲を見回しても、チェーン店の牛丼屋や天丼屋しか知っている店もなかった。
「そうなんだ……。楽しみだな……。俺、カラオケボックスって、でかいチェーン店しか行ったことないんだよね。va……can……? なんて読むんだ?」
目を擦っている直人を横目に、
「vacancyよ。空室って意味ね」
と、結衣が店の名前を言った。
だが、直人は、英語で書かれた店の名前が読めなかったのではなかった。
(なんだろう、さっきもビラ配りがボヤけて見えたけど……。目がおかしいのかな……)
「へ、へー、vacancyねぇ……。空室……かぁ……。なんか、ネーミング、面白いね」
直人は、目を閉じたり開いたりしながらそう答え、結衣の顔に目を向けた。
すると、今度は、結衣の顔が黒く曇るようにボヤけた。
(あれれ……、やっぱり目が……)
今度は、寝起きの時にするように目を擦った。
「どうしたの? 直人くん?」
結衣の声を聞いて目を擦るのをやめ、直人は目をパチクリさせてもう一度結衣に目をやった。結衣が小首を傾げ、大きな瞳で直人の顔を覗き込んでいるのがハッキリと見えた。
(あ、治った。なんだろう? やっぱり疲れか……。それにしても、やっぱり、結衣ちゃん、俺のどストライクだわ! 今日は超超ラッキーデーなんじゃないか……。あの九字の真言とやらのおかげかぁ……? あれ? でも、あれは呪い返しって……)
直人は、寝ながら唱えた九字を思い返した。だが、すぐに我に返り、
「ん? あ、いやいや、なんか目に入ったみたい。でも、大丈夫」
満面の笑顔で、そう答えた。
その時、直人はジーンズの右ポケットに入れた携帯のバイブに気がついた。取り出して画面を見ると、電話とメールの着信が数件あった。
「あ、やべっ、勝からだ……。何件もきてる……」
直人は、メッセージを流し読みした。
『どこ行った?』『これから二次会。どこいんだ?』「連絡くれ』「遠野さんとしけ込んだか?』と、短いメッセージが数分おきに来ていた。
「あいつ……。どうすっかな……。一応、連絡入れておこうかな……」
直人は、そう呟いた。しかし、呟きながらも、携帯をポケットにしまい込んでいた。
「いいじゃない。もう、だいぶ経っちゃってるし、これからだと時間かかるよぉ……。それとも、直人くん、私と二人じゃ、イヤ……?」
結衣が、髪をかき上げながらまたも悪戯っぽく微笑み、そう言った。
(クー、いい女……。
「そんなことないさ、二人きり、いいじゃないっ!」
直人は親指を立てて結衣に見せた。
「ンフフフフフッ……」
結衣の遅い腕が、直人の腕に絡んできた。『小悪魔』的な香りとはこのことかと思わせるような結衣の香水の匂いが、直人の鼻をくすぐった。と同時に、直人は、ふくよかな乳房を彷彿させるような張りと弾力を肘に感じた。
落星 クリストファークリス @kenchri
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