第十六部 決戦の地
84 おけはざま山
一方の織田信長は、二千の兵を率い、泥田の間の細道を駆けていた。
足場は悪いが、この道こそが、善照寺砦から中嶋砦までの最短路だったからである。
「皆の衆、稲生を思い出せ。あの泥田の戦いの、稲生を」
この場に柴田勝家がいなくて幸いだったな、と信長は軽口を言って、将兵らを笑わせた。
そしてその勝家が賊の掃討としつつこちらに向かいつつあると聞くと、沸き立つのだった。
それだけ、鬼柴田が味方となっていることは、織田にとってありがたいことであった。
そうこうするうちに中嶋砦が見えると、見知った顔が待ち受けていた。
「信長さま!」
前田利家、毛利新介、毛利長秀、そして明智十兵衛である。
しかしその邂逅に喜ぶ暇もなく、砦に入りながら、信長は佐々政次と
「で、あるか……」
無念の心境ではあるが、ことここに至っては仕方ない。
政次と季忠のいくさを最大限活かすよう、戦わなくては。
何より、生還した明智十兵衛の意気を挫くわけにはいかない。
「二人の死は致し方ない。だが、この負けいくさにより、今川は、織田が
実際、今川義元は、丸根と鷲津の両砦の陥落と、この遭遇戦の勝利により、酒宴を催している。
……むろん、勝利の宴というだけでなく、他の目的もあるわけだが、それはまた別の話である。
「信長さま。雨が」
帰蝶が天を指すと、黒雲が嵐を呼んで、雨を降らし、風を吹かせ始めていた。
「……で、あるか」
信長はうなずく。その表情は無であり、余人にはその心中をうかがい知ることができない。
だが、帰蝶は知っている。
この雨こそが、信長の待ち望んでいたものであることを。
帰蝶だけには、信長の背中から、それが知れた。
そして、その雨にて何を狙っているのかも。
……雨の日にすればよいとは、かつて道三塚で出会った老人が言っていたことだが、本当にこの時期にして良かった。
「……そういえば、あの時のお方」
道三塚で出会ったあの老人は、今頃、どこで、何をしているのだろう。
帰蝶はふと、わけもなく、そう思った。
*
「見よ見よ、言うたとおりではないか」
今川義元は輿の上で手を叩いて沸いた。
甥である津々木蔵人の遭遇戦の勝利。
これに沸いた。
当初、ぽっと出の津々木蔵人に一軍を預けるなど、と今川軍の諸将は難色を示していた。
が、蔵人自身が尾張の土地鑑を盾に、「ぜひに」と頭を下げたため、諸将の面子を立てる意味で、義元が特に許したというかたちにして、先手として出陣させたのだ。
それが、当たった。
「皆の者、
「いやそれは」
他ならぬ蔵人が、それは油断ではないかと警戒した。
だが義元が蔵人の肩を抱くようにして、そして口を寄せる。
「そういう意味では無いわ。見よ、天を」
服部正成が合戦の終わりに言ったように、天は今、黒雲が渦巻いていた。
そして日は射さず、今、この一帯は影に覆われていた。
「大軍というのはな、存外、扱いに難しいものよ……特にこういう時は」
義元は語る。
大軍を
群れとして維持し、将兵が
「今がその時じゃ。これは来るぞ、雨が。そんな中、進ませてみろ。将兵らはやる気をなくし、沈み、そういう気持ちのところを、そこを、織田が
「……それは」
すわ、敵襲だと大混乱に
「そうよ。だからこその酒宴よ。それに、雨は冷える……体がな。だからこそ、将兵の体を温めてやるのよ、
つまり、今川義元としては、率いる将兵が大軍であるため、運用がきつい。
きついが
万が一、行軍中に襲われるよりは、まだ陣を
「……まあ、この雨であるし、そもそももう、今日はいくさをやるには遅いしのう」
当時、いくさは朝に始める、というならわしがあった。
そのならわしに従うのなら、もう正午を過ぎている今は、「遅い」と言えた。
「……じゃが、相手があの織田の小倅じゃ。油断はならん。雨が降るまで、あと少し、間があろう。それまでに……わかっておるな、蔵人?」
「元より承知でございます」
元々、蔵人は、偵察が目的で出たのだ。その目的は、結果として威力偵察――千秋季忠らとの遭遇戦となったが、本来はちがう。
本来は。
「この先に……ちょうど良い高みがございます」
今川義元は、大高城に至るまでの行軍の間、これあるを期して、高所に陣をかまえることを考えていた。
何しろ、義元自身が言うように、大軍である。
大高城に到着するまで、何があるか分からない。
そこで義元は蔵人に、大高城や各砦を望めそうな、適度な高所はないか、と聞いていた。
もし何かあった場合(現に雨が降りそうだが)、今川軍、なかんずく義元本陣をかまえるべき、高所はないのか――と。
それを受けて蔵人は、今川軍が沓掛城から出陣した折りに、敢えて
「うむ。大儀……して、その高み、名は何というのじゃ」
今川義元は輿に乗りながら、その名を聞いた。
義元にとって――そして信長にとって、運命の地となる、その場所の名を。
蔵人はうやうやしく一礼しながら答えた。
「――桶狭間にございます」
桶狭間。
桶狭間山。
おけはざま山、として「信長公記」に記される場所である。
義元は輿を進め、その桶狭間山へと至る。
……折からの黒雲は、ついに雨をもたらし、蔵人は「こちらに」と輿を急がせた。
*
知多半島の沖をうねるように身をくねらせる蛇の胴体――服部党と北条水軍らは、ついにその視界に熱田の湊を捉えた。
「北条と今川は、手出し無用」
服部党・服部友貞は、わざわざ北条氏康と今川氏真の乗る船にまでやって来て、そう言った。
言葉のとおりに捉えれば、北条と今川の手間はかけないという気遣いにも聞こえる。
しかし実態は。
「おそらく海の一番槍は、己自身だ……と言いたいんだろうな」
氏康は耳の穴をほじりながらそう洩らした。
服部友貞は尾張の人間であり、土地鑑もあり、
一番槍を貰い、かつ、乱取りといった海賊行為で財貨を得るのも、手出しは無用というわけだ。
「……それでよろしいのですか、
生まれながらの貴公子である氏真は、乱取りというところに眉をひそめた。
氏康は頭を
「まぁ、気に食わないのはわかる。わかるがここは……
「なにゆえ」
「何かこう……ヒリヒリするのだ」
「昨夜おっしゃっていた……アレですか」
氏康は昨夜、海の向こうから感じる「その感覚」について、氏真に語っていた。
ちなみに、その場には、いちおう友軍であるので、服部友貞もいた。
だが、友貞には「気にし過ぎだ」と一蹴された。
そしてばかにしたような目で見られた。
「これほどの大船団、大軍を相手に、しかもこれから海は荒れる……そのような中、われらに矢を向けるような奴らがいるものか」
おまけに友貞は、これだから夜陰に乗じて勝った奴はと聞こえよがしに言った。
氏真は気色ばんで立とうとしたが、それを氏康は目で制した。
そして友貞が、がははと笑いながら去って行くのを見送った。
「河越での
「知っていて威張っているのだ、アレは」
地の利があり、
「そういうものですかね」
「そういうものさ」
……そこまで回想してから、氏康は改めて、海の向こうから感じる「気配」が強くなっているのを感じた。
「大軍相手に、嵐の海を征く、か……」
そういえば数年前、そういういくさがあったな、と氏康は思った。
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