56 上洛へ 後編
清州城。
城主の間。
今川義元の「双頭の蛇」のその「全貌」を知り、織田家の家臣一同、ただ沈黙していた。
「…………」
あまりにも壮大で隙の無い、今川義元の策――双頭の蛇。
それは――河越夜戦をめぐる「双頭の蛇」を成した義元ならではの(駿河の河東の奪還に成功している)、策を越えた策といえた。
一同の沈黙を前に、織田信長は口を開いた。
「しかし、活路はある」
信長はまず、村木砦の戦いにおける鉄砲の運用が利いていると主張した。
だからこそ、
信長は懐中の二つ玉を取り出し、つかみだす。
「これはまだ確かめる必要はあるが――津々木蔵人も、あの浮野の戦いで見受けられたとのことじゃ」
捕らえた岩倉織田家の捕虜からも、織田信賢の本陣で蔵人らしき姿を目撃したとの話を聞いた。
ならば。
「一巴の死は大きな損失だが、それでも、村木砦の戦いは、鉄砲の三段撃ちは、予が思いつき実行したもの――と来れば」
その信長の前置きを、帰蝶が引き取る。
「敵はおそらく、雨の日に攻めて来るつもりです」
「雨」
雨の日ならば、海路での戦いは無い。
それはおそらく、示威にとどまる。
……しかし、そう都合良くいくだろうか。
口には出さねども、一同は目でそういうやり取りをする。
が、
「あの」
「何だ又左」
林秀貞が
ある意味、
「いえ」
「だから何だ、歯切れの悪い」
「では申し上げます」
利家は信長と帰蝶の方へ向かって、一度拝礼して発言の許可を求め、それから言上した。
「『双頭の蛇』の策についてはわかり申した。わかり申したが……美濃に対して、どう動かれます?」
胴体の海路については雨頼みなのは承知しましたが、と付け加えると、利家は秀貞が唖然としているのに気がついた。
周りを見回すと、家臣一同も同じ表情である。
何なんだ、と利家が朋友の木綿藤吉の方を見ると、木綿が一番、
「何なんだ木綿、お前その態度」
「いやだって」
まさか利家にそんな知恵が、とかなりあんまりな感想を
「おいお前」
「ご、御前でござる」
木綿がおどけて国譲り状のうしろに隠れるふりをする。
それを見て帰蝶が、ほほ、と笑い、家臣一同もつられて笑った。
信長も笑った。
「ふっふ……許せ、利家。実は予と濃も、ついこの間気がついたばかり。利家のことは言えぬ」
信長が手を伸ばすと、木綿が心得たように国譲り状を手渡した。
「そこでこの国譲り状である。これこそが、
「そ、それが」
何で双頭の蛇をどうにかすることができるのか。
利家を始めとする家臣一同、共通の想いである。
「聞け」
信長が改めて国譲り状を広げる。
人の悪い笑いを浮かべる。
「この国譲り状の
いつの間にか城主の間に来ていた蜂須賀小六が答えた。
「……大殿、斎藤道三の遺志により、一色義龍の支配に、抗う動きが出ましょうな」
「そう。そして一色義龍、美濃にて立ち往生になることでしょう」
それは、必ずややり遂げてみせるという、帰蝶の決意を表すような、凛とした声であった。
*
蜂須賀小六は元は美濃・斎藤家の家臣である。小六には、旧斎藤家の面々への伝手がある。
それゆえにこそ、かつて木綿は、国譲り状の「使い方」に気づいた。
そして今、当の小六はこう
「しかれども……その、『美濃の
しかも、国譲り状という虎の子を持って歩かねばならない。
こんなものを、一色義龍とその手下に見つかったらことだ。
「……そこで、わいの出番というわけやな」
とうっ、とわざとらしいかけ声をかけて、城主の間に新たな人物が
その闖入者の名は明智十兵衛。
十兵衛は、ちょうど空いていた柴田勝家と林秀貞の間に座った。
勝家は、何だこの軽薄そうな奴は、と眉をひそめた。
「よろしゅうな、わい、明智十兵衛いいますねん。そちらの林秀貞さんとは、面識がある」
言われた秀貞の方は、びくっとした。かつて、村木砦の戦いの前の「騒動」において、秀貞の弟・
「……ま、とりあえず、今はそれより、その……今川はんの策ゥどうするかやねん」
十兵衛が如才なく話題を戻すと、秀貞はほっとしたような表情をした。
「ちょいとまとめるで、わい、外で聞いてたさかい、確認の意味でな……今川はんの策は、今川はん自身が海道、つまり陸路と、ほんで海路で襲来し、あとは美濃の一色義龍っちゅう、『双頭の蛇』や」
十兵衛は宙に指で絵を描く。
大きな、二つの頭の蛇を。
「そやさかい、海路の方は、織田の殿サンの鉄砲のおかげで雨の日ィになるから、事実上封印や。雨やと船は危険や」
少数の兵で奇襲するなら別だが、嵐の中では、敢えて船を出さないだろう。
そう十兵衛は補足した。
「これで、今川はんの攻めは陸路に限られるっちゅう寸法やが……そこで美濃の一色が問題となる」
海道の今川義元と、美濃の一色義龍の挟み撃ち。
だが、今川義元は無理にしても、一色義龍にはつけ入る隙がある。
国譲り状の真の意味、真の価値はそこにある。
「で、大回りに回って、申し訳ないんやが、そこで美濃へどうやってつけ入るのか……そこでや」
十兵衛は懐中から、ほいっと書状を出して、林秀貞に渡した。
秀貞は、何だこれはと開いて読んでいくと……とんでもない名が飛び込んで来た。
「征夷大将軍……足利義輝!? こ、これは……将軍さま、公方さまの
「せや。公方さまは、織田の殿サンとお方さまに会いたいんやと……というか、まあ、そういうことになっとる」
そこで十兵衛はかいつまんで細川与一郎藤孝の
「……ま、織田の殿サンは、先代の頃から京にようけ
「うむ」
「ですね」
信長と帰蝶はうなずく。
前田利家は京とか美濃とか呟いているうちに、何かに思いつき、叫んだ。
「あっ」
「おい落ち着け」
これは利家の隣にいた
「いやだって……京へ、つまり上洛するならば……」
「そのとおりだ」
信長は利家の気づきを首肯した。
つまり。
「上洛するならば……美濃を通らねばならん。むろん、公方さまの召喚に応えるという幕命であるので、いかに一色義龍とて、そうおいそれと手出しできぬしな」
信長はまた、人の悪い笑みを浮かべた。
それは帰蝶も同様だった。
十兵衛は、えらいことになったなと苦笑していた。
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