18 那古野にて

 美濃。

 稲葉山城。

 斎藤道三とその嫡男・義龍は、重臣の安藤守就あんどうもりなりを城主の間に呼びつけ、尾張へ出張るよう申しつけた。

 その場で義龍は守就に「いいか、絶対に戦うな」と聞こえよがしに訓辞を垂れていた。

 それをしり目に、道三は帰蝶に「安藤だけでは不安だろうから」と呟き、城主の間の片隅にいつの間にかいた男に目を向けて、「あいつを連れて行け」と言った。


「まあ。貴方は」


「お久しゅう」


 一礼した男は、では早速にとに置いた火縄銃を掴んで立ち上がった。


 ……こうして、帰蝶は安藤守就ら千の兵と、火縄銃の男を連れて、一路、尾張・那古野へと向かった。



 尾張。

 那古野。

 全軍招集と言っても過言ではないくらいの兵力が集まったことを確認した信長は「出る!」と告げた。

 これには、信長の弟・信行の寄越した(正確には柴田勝家が寄越した)林秀貞ひでさだ通具みちともの兄弟が不服を言った。


「これでは、全軍出撃では、那古野が空になるではないか」


「信長さまは兵法を知らぬ。あの世で平手の親爺オヤジが泣いておるわ」


 通具のその発言には、信長本人よりも、前田犬千代や木綿藤吉といった周りの者が目をいた。

 だが信長は冷静そのもので「で、あるか」と洩らしたのみで、黙って北の方を見た。

 土煙が見える。


「来たか」


 信長が大きく手を振ると、その土煙――一軍の先頭の騎馬武者も、やはり大きく手を振った。


「信長さま、遅れまして申し訳ございません」


「大事ない。それより、義父上ちちうえは息災か」


「ええ」


 騎馬武者――帰蝶は笑顔で応え、付き従う安藤守就に向かって、このあたりに布陣せよと命じた。

 このあたりは志賀・田幡といい、那古野城のすぐ北にある。

 信長は早速に下馬をして、守就に礼を施した。


「美濃にその人ありとうたわれた安藤伊賀守にお越しいただけるとは、まことに重畳なり」


「恐縮でござる」


 守就も信長にこう持ち上げられては、悪い気はしない。

 しかも、今回の「出陣」は、この尾張に来て、十日間いるだけでいいという話である。

 守就としても、相好を崩して返礼し、では行ってくだされと手を振った。


「おひいさまはわれらがお守りいたすゆえ」


「では安んじてお任せいたす」


 信長はひらりと愛馬にまたがったが、ここで物言いが入った。

 林秀貞・通具の兄弟である。


「美濃の連中に留守を任せる? ふざけるな」


「こんなに出られるか! おれは帰らせてもらう!」


 などと言って、本当に帰ってしまった。

 これには守就も気の毒に思ったのか、やはり美濃へ引こうかと申し出たが、帰蝶に謝絶された。


「どこの国でもああいう輩をいるものです。そんなことより、今夜は何を食べますか?」


「え?」


「尾張は味噌が美味しいのです。味噌料理でいいですか?」


「え、ええまあ」


 すっかり毒気を抜かれたていの守就は、「林兄弟が戻るかもしれないので」というので、そのまま志賀・田幡に陣を張った信長と帰蝶により、夜を明かして饗応を受けた。

 信長や帰蝶、果ては犬千代や木綿、吉野までが次から次へと盃に酒を注いでくるので、守就は「もう結構、もう結構」と音を上げた。

 それは守就の率いてきた将兵も同様で、ぐでんぐでんとなって、そのまま寝入る者まで出た。


 翌朝。


「それでは、伊賀守どの、濃と那古野をよろしゅう」


「……は、はい」


 けろりとした信長を羨ましそうに眺めながら、守就は織田軍を見送ることになった。

 守就の隣に立つ帰蝶が、「今日も呑みますか」と聞いてくるので、「いや結構! いや結構! 那古野を守るに、さわりがござる!」と自陣へと退散して行った。

 帰蝶は「ほほ」と笑い、ひとりその場に残った火縄銃の男に何事かを話したあと、那古野城へと戻った。



 林秀貞・通具の兄弟は「帰る」と称して那古野から消えたが、織田信行と柴田勝家のいる末森城に帰ったわけではなかった。

 彼らは与力である前田与十郎の荒子城にいた。


「信長め、清州を攻めるというなら攻めるがいい」


「その時、空いた那古野を……」


 何しろ、おあつらえ向きに美濃の安藤守就を引き入れている。

 林兄弟としては、侵略者を追い出せという名目で攻めればいい。


「好機ぞ」


「信長めは行ったか」


 前田与十郎からの信長出陣の報を受け、林兄弟は動き出した。

 だが、林兄弟は気づいていなかった。

 前田与十郎の一族に、前田犬千代という若者がいたことを。



 那古野の城の前を、林秀貞・通具は悠々と兵を進めた。


「見ろ。誰も邪魔しない」


「美濃の安藤の軍とやら、寝ているではないか」


 喜び勇んで、弟の通具が一騎で那古野の城門に迫ったその時。

 城門の上から声が聞こえた。


「そこな武者は、林美作守通具どのとお見受けする。何用か」


 その声は若い女性の声であり、城門の上に立つその声の主を見上げると。


「帰蝶さま」


「いかにもさよう。美作守、何用ですか」


 仮にも主君の一族の妻女である。

 城盗りに来たなどとは言えず、通具は言い訳をした。


「いや、いや、拙者らは那古野の城の守りをと思いましてな」


「ほう」


 気づくと帰蝶は女物の甲冑を身につけている。

 自分が留守を守るとでも言うつもりか。


「聞けば信長さまは全軍で出陣したと。ならば、やはり拙者らが……」


「要らぬお世話です」


 にべもない帰蝶の返答は、通具の癇に障った。

 なんだ、あの態度は。

 しゃらくさい、こうなったらこのまま城門を押し破り、城を盗ってくれよう。

 そう思った通具が鞭を振り上げると、その鞭が弾け飛んだ。


 だん。


 そういう音が、鞭が飛ぶのと同時に聞こえたような気がする。


「……なっ」


「それ以上、城に近づくなら、美作守とてとみなします。良いですか」


「何だと!」


 この時点で、兄の林秀貞と林軍が通具のすぐ後ろまで迫っていたが、彼らの動きもまた、止まった。

 いつの間にか帰蝶の隣に火縄銃を構えた壮年の男が、こちらを睨みつけていたからである。


「おひいさま、面倒くさいねん。やっぱこいつら方がえんやないかア」


「十兵衛、そうはやるものではありませんよ。まったく貴方は変わったのはしゃべり方だけで、いつも喧嘩っぱやく……」


 明智十兵衛光秀。

 道三の正室・小見の方が明智家出身のため、帰蝶のいとこであると。道三に仕えていたが、時折、尊敬する道三にならって浪々の旅に出る癖があり、つい最近まで、京畿の方にいたらしい。それが、に出ていた。

 そして美濃に帰って来たところを、道三に「面白いことがある」と言われ、この尾張に来た次第である。


「そやかて、こいつらやねん。信長さまがせっかく面白おもろいことやってはるのに、よりによって留守ゥ狙うとは。せめて信長さまを狙うとか、気概を見せたらどや、気概を」


 十兵衛のの隙に、兄の秀貞が馬を進めるが、その一歩前を火縄が弾ける。


「気概言うたやないか、気概。意味、分かってまっか? おひいさまァ、やっぱこいつら……」


「その辺にしとけ、十兵衛」


 これは起き出した安藤守就である。彼は、宿酔ふつかよいに銃声が響くと抗議しながら、軍配を掲げた。


「おう、尾張者おわりもん


「な、何じゃ」


 尾張者と呼ばれたのに気づいた通具は、動揺しながらも返事をした。

 守就の軍の将兵らが甲冑をかちゃかちゃ言わせて囲んで来るので、彼としてはもう逃げ出したいところである。


「この守就、尾張にて戦うなと言われておる。道三さまと義龍さまに戦わずとも良い、と言われておるがな……」


 そこで守就がひとつ、酒精のこもった息を吐く。

 十兵衛はやれやれとため息をつく。


「ええと……言われておるがな……これ以上うるさくすると……頭に響く! とっととね!」


 言っておいて、「頭が」とぼやく守就に、帰蝶と十兵衛は笑ってしまった。

 そして、林秀貞と通具は、一目散に逃げ出していた。



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