14 さらば政秀
松平親乗は平手政秀から「この平手政秀が二、三日のうちに織田家の兵を率いて三河に参陣する」と記された書状を渡されて、ほくほく顔で帰っていった。
当然ながら、織田信広には会っていない。時間が惜しかったからである。
太原雪斎が甲相駿三国同盟を成立させるまで、あと少しと聞く。
このままでは、今川義元は同盟締結のために、駿府へと戻ってしまう。
……竹千代を伴って。
今川義元は先日、うかつにも親乗の前で「知多はどうなっておるか」と洩らした。
知多――知多の水野家は先年の織田信秀と義元の和睦で、今川家の所属となっていたはずである。
そこから推理をめぐらして、水野家と織田家が繋がっていると確信し、親乗は水野信元に「このままだと今川家にやられるぞ。嫌だったら、言うことを聞け」と、平手政秀への紹介を求めた。
「思うたとおり。政秀どのなれば、安城合戦でやられたことを覚えておった」
若い織田信長では、聞いてはいても、知ってはいまい。
だからこそ、親乗は政秀を指名した。
最悪、信広に会いに行けばよい。
そう思って政秀に会い、こうして政秀直筆の書状を得たのだ。
あとは、考えたとおり、やればよい。
竹千代を取り戻し、そして、三河を松平のものとする、否、戻すのだ。
……こうして、松平親乗は大給城に戻り、すぐにでも来るであろう、平手政秀率いる織田軍の動きを待ち構えていた。
だが、ほかならぬ政秀が兵を率いることができなくなってしまったため、それが実現することはなかった。
後に親乗は自力で挙兵せざるを得なくなるが、それはまた別の話である。
*
「……今川義元の差し金か」
それと気づかぬように、松平親乗を「ある方向」に誘導し、ついにはこの平手政秀から、あのような兵を出すという約束を引き出させる。
那古野城の持仏堂にこもり、政秀は肝の冷える想いを味わっていた。
信長たちは、まだ正徳寺から戻ってこない。
むしろ好都合。
そう思って、政秀は持仏堂に入り、「安城合戦の死者に念仏を」と称して、そのままこもっていた。
「恐るべきは今川義元の策よ。一兵も損なわず、この平手政秀を仕留めるとは」
おそらく今川義元としては、三国同盟締結までは、他の二国になめられないために、兵の消耗を避けたい。
いたずらに兵を損なっては、今川家の
「だからこそ、策を。だからこそ、調略を」
今さらながらにして、このような恐るべき男が隣国にいることに恐怖を覚える。
そして、その恐るべき男の狙いは今。
「この、平手政秀、というわけか……」
思えば、これまで長い長い道を駆け抜けてきたような気がする。
その駆け抜けてきた先が。
果てが。
「この那古野城の持仏堂か。面白い」
かつて。
織田信秀と平手政秀が若かりし頃。
当時の二人は城を盗ろうと企んでいた。
それがこの那古野城であり、その時の城主は今川氏豊といった。
氏豊は連歌を趣味としており、その氏豊に取り入るため、信秀と政秀は連歌に興じた。
のちに、本当に連歌に長けるぐらいに、二人は連歌に打ち込んだ。
そして、連歌がしたいといって、那古野の城に日参し、氏豊に気に入られ、ある日、信秀は「具合が悪い」とこの持仏堂を借りて、伏せることにした。
むろん、それは偽りの病であり、信秀は機会を捉えて「もはや最期だ。家臣を呼んでくれ」と氏豊に懇願した。
その願いを聞き届けた氏豊により、政秀は那古野に乗り込み、信秀と内外呼応して、城を占拠した。
「あれは面白かったのう……信秀」
二人で計画を練り、実行し、そして成功させる。
これが下剋上であり、乱世というものかと、二人で震えたものだ。
「だが……あれから大分経った。どれだけかのう……」
政秀は笑顔だった。笑顔で、信長の「所業」を諫める書状を書いた。
むろん、嘘である。
政秀が手塩にかけて育てた信長に、諫めることなど、ありはしない。
ただ、そういうことにしておかないと、松平親乗を「騙した」かたちで政秀が死んだことになるため、敢えての書状だった。
「お許しくだされ、信長さま」
そしてここまで読んで策を仕掛けてくる今川義元を前にして、置いて逝くことを。
政秀は脇差を抜いた。
「……信秀、悪いが逝くぞ。だが、おれとお前の子、信長のことだ、きっと何かをやり遂げる。信長は……信長こそが……おれの……おれとお前の……語り草よ」
唄が聞こえた。
――死のふは
「信秀?」
なつかしい声だった。
ただの、尾張の片田舎の守護代のその下の奉行の家柄の子が、そう唄っていたのを聞いたのが、出会いだった。
何も持っていない。
けれども、若さだけは、未来だけは誰よりも持っていた、あの日。
その未来を過去にする時、きっと語り草を残そうと誓った、あの日。
あの日の姿の信秀が目の前にいた。
気がつくと、政秀もあの日の姿だった。
「そうか」
迎えに来てくれたんだな、と政秀は笑った。
天文二十二年閏一月十三日。
平手政秀、自刃。
享年六十二歳。
器用の
その死は謎に包まれているが、これだけは言える。
政秀は最期まで――織田信長のことを案じていた、ということを。
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