【休載中】『鰤』

駿介

 慶安けいあん元年と申しますから、世は三代家光公の御代みよのことでございます。丹波の国の福知山辺りを領する大名に、稲葉紀通のりみちなるお殿様がおりました。稲葉氏と云えば何を隠そう、時の公方くぼう様の御乳母めのとであらせられた春日局の縁戚に当たる名門でございます。その権威により、姻戚の堀田ほった氏共々世の栄華を極めたことは、既に天下てんがに広く知られたことでございましょう。されど、この殿様に関して御公儀の文書にさしたる記述もなく、官位も従五位下じゅごいげ淡路守あわじのかみとあるのを見ますに、分家に生まれし故か、その栄華を浴することはなかったようでございます。この殿様は元々伊勢の国は田丸の生まれでございましたが、寛永元年、家光公が征夷大将軍とお成り遊ばしたみぎりにお国替えとなりまして、丹波の地は天田あまた郡に四万五千石余りの禄を賜ることとなったのでございます。はてさて、そのような殿様がなぜ後の世までその名を残しているかと申しますと、少々珍妙な事跡で巷間こうかんを賑わしたが故でございます。

 この紀通、平時は心優しき者でございましたが、いささか短慮で猜疑心が強いところがございました。ある時は碌々詮議も致さず家臣を手討にし、またある時は図らずも非礼を働きし民百姓たみひゃくしょうをその場で斬り捨てるなど、その悪行を挙げれば際限がございません。遂には狩の獲物が少なさに腹を立て、罪なき百姓六十人余りをその場にて斬り捨てるという凶行に及び、暴君として近隣諸国にまでその名が知れ渡るまでになったのでございます。

 ある時、紀通は伊勢の昔を懐かしんで寒鰤の話をしたそうでございます。ところが、その時御前に控える家臣は皆福知山にて召し抱えられた者や若輩の者ばかりにて、伊勢の寒鰤を口にしたことがございませんでした。それを知り不憫に思った紀通は寒鰤を家臣に振る舞うことを思い立ち、「左様なれば寒鰤を百匹用意致せ、わしがそなたらに寒鰤を振る舞おうぞ」と家臣に下知されましたが、御前に控える家臣は皆困り果てた面持ちでございます。それも至極当然のことでして、この時の紀通の領分に海に面した土地はなかったのでございます。やや間あって家臣の一人が「当家の領分はいずれも山合の地ばかりなれば、いかようにして海の魚を百匹も手に入れることができましょうか」と恐れながらに申し上げると、紀通は不気味な笑みを浮かべ「宮津みやづ京極きょうごく殿に頼めば良かろう」事もなげに申されて祐筆ゆうひつを呼ばれたのでございます。それより四半時ばかりで書状がしたためられ、すぐさま宮津へ使いの者が送られたのでございます。

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【休載中】『鰤』 駿介 @syun-kazama

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