第153話 相談した日
「ようクソガキ、久し振りじゃねぇか」
「年末に来たばかりだろ」
水曜日の夜。
追い詰められた俺は兄貴の店に足を運んだ。
いろいろ考えたが一人で結論を出すのは無理だ。
これまでは人に相談するようなことではないと思っていたけれど、それは間違いなのではないかと思い始めた。
では誰に相談するのかと考えた時、真っ先に浮かんだのは兄貴だった。一応既婚者らしいし、この機会に経験談でも聞かせてもらえればと思う。
「年末といえば、てめぇの連れが合コンとか言ってたな。結局どうなった?」
「全滅したらしい」
「はっはっは、そりゃ愉快だ」
カウンター越しに俺を見る兄貴は、机を叩いて豪快に笑った。
店の内装は相変わらずで、兄貴の太い腕に叩かれている机なんて壊れないのが不思議なくらいボロボロだ。しかし不快感は皆無で、ここに来ると妙に落ち着く。それはやはり彼の人柄によるものなのだろうか。
「全滅ってことは、てめぇもか」
「俺はそもそも巻き込まれただけだ」
「ほぉ?」
兄貴は煽るような口調で言った後、急に楽しそうな表情を見せる。
「で、今日はそういう話をしに来たのか?」
「……よく分かったな」
「顔に書いてあっただけだ。とりあえず何か注文しやがれ、話はそれからだ」
頼んだ料理が出て来るまでの十五分間、俺は黙って兄貴の背中を見ていた。
最初はエプロンを着た大男が鼻歌まじりに料理している姿に恐怖したけれど、今では少しも気にならない。むしろ、その大きな背中に敬意を覚えている。
バイトとして雇われた一週間で、俺は多くのことを学んだ。
ここに来るのはおかしな客ばかりで、大金を積まれても関わりたくないと思える程だった。特に喧嘩っ早い俺は、何度も拳を握り締めたものだ。
そんな俺を尻目に、兄貴はいつも上手くやっていた。どんな破壊的な客を相手にしても、必ず双方にとって良い結果となるように行動していた。それを見て俺は、これが大人の姿なのだと思った。
だから、心のそこから尊敬している。思えば俺があれこれ深く考えるようになったのは、その姿に憧れたからだったか……。
「ほれ、KOYスペシャル定食だ。残すんじゃねぇぞ」
厳つい名前の定食だが、内訳はカツ丼と味噌汁、それからキャベツの三点だ。素直にカツ丼定食と名付けないのにはきっと何か深い理由があるのだろう。興味は無いけれど。
「いただきます」
軽く手を合わせてから、まずは味噌汁を口に含む。
その瞬間、兄貴は少し低い声で言った。
「で、今日はどうした。ついに檀先生とヤッちまったか?」
「何の話だ?」
「おい、そこは驚いて味噌汁を吹き出すところだろうが」
兄貴は頭を抱えて心底がっかりした様子で溜息を吐いた。
どういうことだ、そんなマナー聞いたことねぇぞ。
さておき、相手が小日向さんってことはバレてんのか。流石は兄貴だ。
具体的にどう相談しようか迷っていたが、この男が相手なら特に考える必要は無さそうだ。
「率直に聞きたい。結婚って、どういうものなんだ?」
問いかけると、兄貴は唖然とした表情で口を開けて、そのまま硬直した。
……あれ、なんか間違えたか?
「あんたは既婚者なんだろ? だから経験者の言葉を聞いてみたいと思ったんだが、まずかったか?」
「……いや、すまん、驚いた」
彼は口を閉じた後、何かを考えるように目を閉じて、うーんと低い唸り声を出した。
「……そうか……うん。そうか」
そのまま途切れ途切れに意味深な感じで呟いている。
いったい何を考えているのだろうか。かなり気になるが、ここは素直に言葉を待つのが正解だろう。
俺は緊張感を紛らわす為に、目の前にある料理を無心で突いた。
あれだけ悩んでおいて他人の言葉ひとつで決断するつもりなんて無いけれど、きっと次に彼が言う言葉は俺の決断に大きな影響を与えるに違いない。
「さて、経験者の言葉だったよな」
ゴクリと、得体の知れないものを飲み込む。
食事の手を止めて顔を上げると、そこにはいつも以上に威圧感のある顔が、どこか憂いを帯びた目で俺のことを見ていた。
そして、彼は口を開く。
「結婚なんてするもんじゃねぇぞ」
……聞き間違えたか?
「幸せなのは最初だけ。嫁は年々老けてくし我がままになるし、五年も経てば切っても切れない腐れ縁よ」
「そうなのか……」
どうやら聞き間違えたわけではないらしい。
この口振りだと、兄貴は結婚に否定的な考えを持っているようだ。
「あんたは結婚したことを後悔してるってことか?」
「過去に戻ったら自分をぶん殴ってやりたいくらいだ。結婚は人生の墓場なんて言うが、まさにその通りだと思ったよ」
……墓場、みさきからも聞いた言葉だ。
やっぱり、結婚はするべきじゃないってことなのか?
だけど、後悔する未来というのも想像しにくい。
結婚っていうのは、互いのことを大事に思うやつ同士でするものじゃないのか?
「まったく、本当にあの時の俺はどうかしてたよ」
ポツリと、兄貴は言葉を零す。
「それでも……後悔は、してねぇな」
少し上を向いて、彼は言った。
その目には、いったい何が映っているのだろうか。
後悔はしていない。
溜息混じりに発せられた言葉には、確かな重みがあった。
きっと彼は過去を振り返って、その光景を見ながら言ったのだろう。
振り返ると後悔ばかりの俺は、それが少し羨ましい。
「おらクソガキ、なにしょげたツラしてやがる」
「気にしないでくれ、ちょっと考えてただけだ」
「はっ、本当に丸くなったもんだな。ほんの少し前は、いつ客を殴るか冷や冷やする野郎だったってのに」
兄貴は小さく肩を揺らして言った。
確かに、ここでバイトを始めた頃の俺はそんな感じだった。あれからもう二年は経っているはずなのに、昨日のことのように思い出せるから不思議だ。
「さて結婚の話に戻るが、人の意見なんか参考にならんぞ。十人十色ってやつだ」
「そういうもんか」
「そういうもんだ。結婚なんてただの手続き、買い物と同じだ」
買い物……そこまで軽い考えでいいのか?
「だが、この買い物は少し特殊でな。代金は
……。
「てめぇに分かるように言うと、相手に全部を背負わせる代わりに、相手の全部を背負うってことだ。こいつは腰が砕けるくらい重てぇから、そうだな……もしもてめぇにその気があるなら、覚悟を決めろ」
「覚悟?」
「ああそうだ。近頃の若いのは直ぐに離婚だなんだと騒ぐけどな、それは覚悟が足りてねぇからだ。結婚を考えるなら、相手の全部を背負えるかどうか考えてみやがれ。もしも無理ってんなら、わざわざ結婚するこたぁねぇ。それまで通り他人でいればいい」
……。
「……そうか」
しばらく考えて、言葉になったのはその一言だけだった。
どこか心にぽっかりと穴が開いているような感覚があって、そこに投げ入れる言葉が見つからない。
「ありがとう、参考になったよ」
「おう、なら飯を食え。残すなよ」
そのあと俺は無心で食事を続けた。
兄貴も気を遣ってくれたのか、黙って食べ終わるのを待っていた。
*
最後の一口を飲み込んだ後、簡単に挨拶をしてから店を出る。
それから真っ直ぐ部屋に向かって、ドアを開けるとみさきが駆け寄ってきた。
可愛らしい兎の描かれたパジャマを着たみさきは、テレビを見ていたらしい。
俺は直ぐに風呂に入って、歯磨きをして、それからみさきと一緒に寝室へ向かった。
みさきは眠いのを我慢して俺のことを待っていたようで、電気を消すと直ぐに寝息が聞こえた。
俺は自然と緩む頬を放置して、真っ暗な天井を眺める。
……やっぱり、兄貴はすげぇ男だよ。
音も色も消え、真っ白だった世界にようやく言葉が生まれた。
俺があれだけ考えて何も分からなかったのに、兄貴は僅かな時間で言葉を作り上げた。
そして彼の言った言葉が俺の耳から離れない。
覚悟を決めろ。その一言が何度も繰り返されている。
……全てを背負う、か。
兄貴は言っていた。その覚悟が無いのなら、結婚なんてする必要は無いと。そう考えると、ますます結婚というものが分からなくなる。また彼の言葉を借りるならば、自分の全部を支払って相手の全部を買い取る買い物ということだが、わざわざそんなことをする理由が思い浮かばない。
そこまでして相手と一緒にいたい、ということだろうか。
……上手く想像できない。
たとえば、俺とみさきの関係はどうだろう。
俺は結果としてみさきの全部を背負うと決めた。ならこれも、形としては結婚と似ているのではないか?
……違う。
確かに形としては似ている。
だけど、やはり結婚とは違う。だって何がどうあっても、みさきは子供なのだから。俺がみさきの全てを背負うというのは、親としての義務を受け入れるということで、他の何かに置き換えるのは不可能だ。
親の義務。
それは子供を幸せにするってことだ。歩き方すら知らないガキを手取り足取り教育して、いつか一人で歩けるようになるまで面倒を見るってことだ。
生まれてきて良かった。
俺はみさきがそう思えるように努力している。
だから、その意味を理解している。
だからこそ結婚とは別の物だと分かる。
だって相手も同じ大人なのだ。手取り足取り面倒を見るなんてことにはならない。もちろん逆もありえない。
この考えに兄貴の言葉を当てはめるならば、互いが互いの手足になるような物だろうか。
全部を背負って全部を背負わせるというのなら、この喩えがしっくりくる。
例えば相手の脚が折れてしまったのなら、俺が片足で支える。
なるほど、それなら理解出来る。
……覚悟、か。
いまさらになって、その言葉の意味が分かった。
たった一人で歩くことすら難しいのに、誰かを支えて歩くとなれば相当の覚悟が必要だ。
いや、それだけではない。
自分に何かがあった時は、それを大切な人に背負わせるということでもある。
結婚するのなら、その覚悟をしろと、きっと兄貴はそう言ったのだ。
……そういえば。
そういえば、小日向さんも似たようなことを言っていた。重たいとか、大変とか。結婚について、そんな言葉を口にしていた。そこで俺は、どうやって支えるのかと問いかけて、小日向さんは、なんて答えたっけか。
あの時は確か……えっと……そう、愛の力と言っていた気がする。
…………。
すうっと、頭の中で何かが流れるような感覚が生まれた。
それは妙に心地よくて、晴れやかで、同時に何よりも重たい感覚だった。
答えが出た。
互いが互いの手足となって支え合う。
その覚悟を得る為の力、きっとそれが人を好きになるということだ。
だったら簡単だ。
俺の中にそれがあるかどうか考えれば良い。
朱音と、小日向さん。
共に大切な友人で、かけがえのない存在だ。
そんな相手と結婚する覚悟があるのかどうか。
それを考えればいいだけだ。
俺が思い悩んでいたことは、ただそれだけの話だった。
……そういえば、部屋に帰ってから小日向さんの顔を見ていない。遅くなるかもとは伝えてあったし、部屋で漫画を描いているか、既に寝ているのかもしれない。
なんて余計なことを考える余裕があるのは、答えが決まったからだろうか。
あとは、いつどうやって形にするか、それを考えるだけだ――
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