第五章 未来のこと
第126話 漫画を読んだ日
九月下旬。
深夜の公園に小日向さんと二人。
みさきが眠った後、小日向さんが部屋を訪ねてきた。
頼みがあるとのことで、俺は二つ返事で頷いた。小日向さんの頼みを断る理由は無い。
そうして訪れた公園の出入口付近で、俺達は向かい合っていた。
周囲の民家はすっかり眠りに就いているけれど、直ぐ隣に街灯があって、小日向さんの顔がはっきり見える程度には明るい。
小日向さんは、いつものジャージとは違う服を着ていた。単純に今夜は寒かったからか、暖かそうなコートを羽織っている。しかし下はスカートで、オレンジ色のジャージの代わりに黒色のタイツを身に付けている。そして手には、大事そうに抱えられた大きな封筒があった。
この封筒を見た時、俺は全てを悟った。
小日向さんの頼み事は、恐らく封筒の中に入っている漫画を読んで感想をくれと、そういうことに違いない。妙に挙動がおかしいのも、上気した顔をしているのもきっとそのせいだ。
俺はこれから、エロ本を読まされる。
読むだけなら構わない。
問題は、感想を求められることだ。
こういう場合、どうするのが正解なのだろうか。
いつも世話になっている女性が描いたアレな漫画を読んだ時、いったいどうするのが正解なのだろうか。
すっげぇ興奮した!
なるほどストレートかつ素人感溢れる感想だ。しかしこれでは、投げやりに返事をした感も否めない。具体的にどういうところで興奮しましたか? と聞かれたら終わりだ。
では逆に、最初から具体的に述べたとしよう。
なんだその変態、即座に縁を切られてもおかしくない。
よし、ここは考え方を変えよう。
これから読まされる漫画は、間違いなくみさきには読ませちゃいけない漫画だ。しかし、小日向さんが真剣に描いた漫画であるということも確かだ。
ならば俺は一人の読者として、真剣に向き合おう。
「……お願いします」
「ああ、分かった」
果たして、小日向さんから差し出された封筒を受け取った。そこそこの厚みがあり、中には漫画の原稿と思しき紙の束が入っていた。
俺は一度、小日向さんの方を見る。
小日向さんは今にも沸騰してしまいそうなくらい顔を真っ赤にして、俺のことを見ていた。
その目には、恐らく羞恥心から来るであろう緊張と……そして、真剣さがあった。
そうだ、やっぱりこの漫画は小日向さんが真剣に描いたものなんだ。決して男にエロ本を読ませて感想を求める女という目で小日向さんを見てはいけない。
目の前にいるのは、漫画家の小日向さんだ。
そして俺は、彼女に選ばれた栄誉ある読者なのだ。
「読むぞ」
「……はい、お願いします」
俺は軽く呼吸を整えて、ゆっくりと原稿を取り出した。
「……おお」
思わず感嘆の声が出る。
初めて読んだ時にも思ったが、小日向さんはかなり絵が上手い。
恐らく俺が見ているのは表紙に当たる絵なのだろう。男女二人の登場人物がいて、奥にはスーツを来た男、そして正面には机に向かって何かを書いている女が描かれていた。
それぞれの人物の背景もしっかり描かれていて、男は街を歩いていること、女は部屋の中にいること、どちらも絵を見た瞬間に理解出来た。
……この表紙でエロ本なのか?
疑問は保留として、とりあえず次のページを見た。
結論から言えば、エロ本じゃなかった。
みさきに読ませても安心できる内容だった。
物語は、主人公の女が部屋を出るところから始まる。
彼女はマンションの一室に住んでいて、どうやら隣の部屋に住む目付きの悪い男のことが怖いらしい。
だが、あるとき男が満面の笑みを浮かべている姿を目にする。
女は気になって、その日の夜は眠れなかったようだ。しかし翌日、今度は死にそうな顔をした男を目にする。女は思わず男に声をかけ、それがきっかけで、二人は何度も話をすることになった。
そして、最後の1ページ。
女が男に何かを言っている。
男は真剣な表情をして、それに返事をしていた。
何を言ったのか、それは分からない。
なぜなら、この漫画には一切の台詞が存在しなかったからだ。絵だけでも話は分かるし、素直に面白かったのだが、やはりこの部分は気になった。この二人は、どんな会話をしたのだろう。
「ありがとう、面白かった」
素直な感想を言って、漫画を小日向さんに返した。
「……ありがとうございます」
小日向さんは未だに緊張した様子で封筒を受け取って、それを大事そうに抱き締めた。
「……」
「……」
何か、言った方が良いのだろうか。
それなら最後のシーンについて聞きたいところだが、小日向さんも何か言いたそうにしているように感じる。
「……あの」
暫く待っていると、小日向さんが口を開いた。
その表情は俺が漫画を読み始める前よりも強ばっていて、とても緊張しているのが伝わってくる。
「……最後の、シーン、ですけど」
「ああ、あのシーン」
ちょうど俺も気になっていたシーンだ。
小日向さんも何か気になることがあるのだろうか?
「……」
深呼吸している。
「……うげほっ、げほっ」
あ、むせた。
「…………」
小さくなった。恥ずかしかったらしい。
「小日向さん、落ち着いて」
「……は、はひ」
再び深呼吸。
「……その、最後のシーン。二人は……どうなったと、思いますか?」
まさかの質問だ。
そこは俺が聞きたいところだったのに。
「……どうなったと、思いますか?」
しかも今まで以上に真剣な表情だ。
これは、俺も真剣に答えないとな……。
「女が、男に何かを言っているよな」
「……はい」
何か……きっと小日向さんは、この何かを求めているのだろう。どうして台詞が無いのかは分からないが、それを俺に問うことに大きな意味があるに違いない。
考えろ、あの漫画はどんな内容だった……?
ストーリーはとてもシンプルで、男と女が仲良くなって……待てよ。あの漫画、なんか見たことあるような気が……どこだ、どこで見たんだ?
主人公の女は、最初は男のことが怖くて、だけどあるきっかけで話すようになって、そのうち仲良くなった。そんなストーリーに、なんだか既視感がある。
「……」
「……」
小日向さんは、唇をきつく結んで俺の言葉を待っていた。
その表情を見て、ふと直前に読んだ漫画のことを思い出した。
……同じだ。
最後のページで男のことを見ていた女と、今目の前にいる小日向さんが重なって見えた。
……そうか、そういうことか。
ようやく理解した。
小日向さんが俺にあの漫画を読ませた意味、台詞が無かった理由。
あの二人のモデルは、きっと俺と小日向さんだ。
なら、これはきっと俺に対する小日向さんの問いかけだ。
「二人は」
長考の末、口を開いた。
ずっと緊張した様子で言葉を待っていた小日向さんの目を見て、短く返事をする。
「 に、なったんじゃないか」
俺の言葉を聞いて、小日向さんは
「……」
微かな吐息と共に、柔らかく微笑んだ。
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