第105話 第九話:みさきとコイのぼり

「やねよーり、たーかーい、こいのーぼぉりぃ〜♪」


 早くも四月が終わり、みさき達はゴールデンウィークを迎えていた。

 今日は、こどもの日。古くは端午の節句と呼び、中国で行われていた厄払いの行事が始まりである。そこから語呂合わせやら何やらで形を変え、いつの間にか鯉を空へとのぼらせるようになった。そこには、滝をのぼった鯉が龍になるように、自分の子供にも大きく元気に育って欲しいという願いが込められている。


「おおきーい、らららーら、らららーらららー」


 ベランダで竹に大きな鯉を取り付けながら、ゆいはにこにこ歌っていた。その隣で次の鯉を持ったみさきが作業を見守っている。そして仲良く鯉を飾る二人の姿を結衣は部屋の中から微笑ましく見守っていた。


 ピタリと、ゆいの動きが止まる。


「つぎのかし、なんだっけ?」

「……おかし?」

「おやつはまださきです!」


 漏れ聞こえた会話に、結衣は小さく肩を揺らす。それから机の上でファンファン音を鳴らすノートパソコンに目を移して、仕事の準備を再開した。休日には娘との時間を再優先するようになった結衣だが、やはり長年の習慣というのは簡単には消えてくれない。


「いやー、ははは。やっぱ何してても可愛いなぁ」

「黙っててください」


 先程からベランダで作業をする子供達を見て同じことを繰り返す龍誠に向かって、結衣はエンターキーを強く叩きながら言った。それからまたカタカタと作業を続けながら、龍誠に声をかける。


「みさきちゃんしか呼んでいないはずでしたが」

「保護者同伴で何が悪い」

「部屋が臭くなります」

「マジで? 俺臭い?」


 焦った様子で服を引っ張り鼻を鳴らしては首を傾ける龍誠を見て、結衣はイタズラな笑みを浮かべる。


「前にも言ったような気がしますが、女性の嗅覚は男性よりも鋭くなっています。貴方に分からなくても、私達には分かる悪臭というのがあるのです。はぁ、みさきちゃんがかわいそう」

「ぅぉおいぉいマジかっ、それマジなのか? ちょっ、どうすりゃいい? リセ○シュとか香水とかでどうにかなるのか?」

「うえっ、吐き気がするので近寄らないでください」


 わざとらしい言い方をして鼻を摘む結衣。

 龍誠は慌てて身を引くと、深刻な表情でガタガタと歯を鳴らした。その姿を見て、結衣は心の中でくすくすと笑う。こんな分かりやすい冗談で真剣に焦っているのだから、見ている側としては面白い。


 そして、そんな二人の様子を見てゆいはくすくす笑っていた。


「……みさき、じゃましちゃダメだよ」

「……ん?」


 意味が分からなくて眉をしかめたみさき。頑張ってゆいの手伝いをしているのだが、何か失敗していたのだろうか? 不安になるみさきの隣で、ゆいは鯉を飾り付けながら、部屋の中から聞こえてくる会話に耳を立てていた。


「てめっ、冗談だったのかよ!?」

「静かにしてください。近所迷惑です」

「この部屋は防音とかバッチリなんだろ、みさきから聞いてるぞ」

「静かにしてください。私に迷惑です」

「お前の中で俺はご近所さんって扱いなのか、よく分かったよ」


 確かに家は背中合わせだしな、と龍誠。住んでいる環境は段違いだが、距離は石を投げれば届く程度にしか離れていない。


「まったく、相変わらず品性の足りない方ですね。みさきちゃんがマネしたらどうするのですか?」

「テメェに言われたくねぇって言いたいけど……それは、まずいな。みさきには、そう、大和撫子を体現したかのような清楚で可憐な大人に育って欲しいと思ってる」

「不思議です。良い言葉のはずなのに、貴方が言うと生意気な中学生が偉大な人物の遺した名言を語っているかのように感じます」

「スゲェ遠回りな皮肉だな……」

「皮肉だと分かるのなら、まだ救いようがありますね」


 目も合わせず、パソコンの操作を続けながら言う結衣。

 龍誠はやれやれと肩をすくめて、はぁと息を吐いた。


「お前、やっぱ俺のこと嫌いだろ」

「どうしてそう思うのですか?」


 カタリと、結衣がパソコンをいじる音が止まる。


「どうしてって、会う度にこんだけ心を抉られてれば誰でもそう思うだろ……」

「なるほど、参考にします」

「なんのだよ」

「貴方には関係の無い話です」


 少し不機嫌そうに言って、結衣はノートパソコンをパタンと閉じた。龍誠は「なんでこいつが不機嫌になるんだ?」と一生かかっても解決しなそうな疑問を抱えながら、用意されたティーカップに入った紅茶を口に含む。


「参考までに、どういうところで心を抉られましたか?」

「だから何の参考だよ」

「黙って答えてください」


 有無を言わせぬ態度で問いかける結衣。本人は純粋に質問しているつもりだが、きっとこれは詰問という言葉で表現した方が正しい。


「どういうところって、全部だよ、全部」

「なるほど、そういうことでしたか」


 なに言ってんだこいつと龍誠は目を細める。

 しかし結衣は至って真面目だった。彼女からすれば、自分と話をしている時の龍誠は基本的に同じ色をしているので、いわゆる何気ない友人との雑談が成立していると思っていた。しかし実際には、それは彼が心を抉られている時の色だったらしい。衝撃である。


 きっと一般的な感性を持っていれば結衣に対して「なに言ってんだこいつ」などと思うのだろうが、小学六年生の短い時間を除いて友人とは無縁だった結衣には友人との付き合い方が分からない。もっと言えば、仕事以外の会話というものが分からない。


 ゆいとは普通に会話が成立しているのだが、やはり子供を相手にするのと同年代の人を相手にするのでは違う。


「では逆に、どんな会話がしたいですか?」


 単純な好奇心から、結衣は質問を続けた。

 龍誠は心の底から「なに言ってんだこいつ」と思いながら、どう返事をしようかと考える。



 一方で、ゆいとみさきはちょっとしたピンチに陥っていた。



「……いとが、なくなりました」

「いと?」


 ベランダは、出入口を除く三方が細い鉄パイプのような物で囲まれている。それはちょうど大人の腕が一本だけ通る程度の間隔を開けて並べられていて、ゆいの身長より少し高いくらいの高さがある。ここからの眺めは良く、ゆいは暇な時に適当な隙間から外の景色を見ている。


 さておき、糸が無くなってしまった。

 二人は十分ほど前から竹に鯉を糸で結びつけていた。その作業が終わったら結衣達を呼び、高いところに竹を固定するという手筈だ。本来なら二人で一緒に進められる作業だが、ゆいがあまりにも楽しそうに鯉を結ぶものだから、みさきは空気を読んで作業をゆいに一任していた。


 らららーと歌いながら鯉を結んでいたゆい。

 今日は風が強いから、しっかり結ばなきゃ大変ね!


 その結果、すべての鯉を取り付ける前に糸が無くなった。


 ゆいは両手をぷるぷるしながら、キッツキツに取り付けた鯉達を見る。試しに一箇所の結びを解こうとしたけれど、ピクリともしなかった。なんだか悔しくって糸に噛み付くと、文字通り歯が立たない……と思ったら、ぷつりと糸が切れた。


「なっ」


 絶望を絵にしたかのような表情になるゆい。

 みさきはゆいちゃん何してるんだろうと考え、やがてある結論にたどり着いた。


「いと、たべらない」

「……うん、しってる」


 そんなにお腹すいてるのかな、と思うみさき。


「おやつ、たべる?」

「……うん、たべる」


 しょんぼりしたままのゆい。

 みさきは、んーと暫く悩んで。


「いこ」


 ポンポンと、四つ這いになって落ち込んでいるゆいの肩に手を添えた。



 ちょうどその頃、結衣は龍誠にドン引きしていた。



「あの、流石にみさきちゃんのこと好き過ぎるのでは?」

「別に普通だろ」

「なんというか、怖い……いえ、気味が悪いと思いました」

「変わってねぇだろ何で言い直した」


 どこがおかしかったんだよと唇を尖らせる龍誠。

 彼はどんな話をすれば嬉しいかという質問に、それはそれは真剣に答えた。


 どんなって、そんなのみさきの話に決まっている。それが少しだけ、ほんの少しだけ行き過ぎてしまい、結衣に不気味がられて今に至る。龍誠が何を言ったのかは、みさきという三文字で埋まった日記を見れば想像出来るかもしれない。


 さておき、結衣は心底呆れたような表情で言う。


「そんなことで、この先どうするのですか?」

「なんだよ、この先って」

「あと十年もすれば、みさきちゃんが家に彼氏を連れてきますよ」

「かっ、かかかかかれはぁ!? ば、バカ言うんじゃねぇよ認めねぇよそんなの!!」

「はぁ、父親というものは、こうして娘に嫌われていくのでしょうね」


 グサリと、結衣の言葉が龍誠を貫く。


「……テメェ、その言葉、そっくりそのまま自分に返ってくることを忘れるなよ?」

「何を言っているのですか?」

「ゆいちゃん、そのうち彼氏連れてくるぞ」

「かっ、かっ、ふざ、ふざけないで! ゆいはそんな不純な子じゃありません!」

「不純ってなんだよ」

「貴方は昨今の若者の恋愛事情を知っていますか? 有り得ません。親として、そんなことは断固として阻止します。ゆいには、清く正しい交際をして、素敵な、男性、と……うっ、ゆい……」


 その時のことを想像して小さな涙を零した結衣。

 若者って俺もお前も十分若いだろと思いながら、龍誠もいずれ訪れるであろう「その時」を想像して、目頭が熱くなる。


 と、そこへ。


「ママ、いとなくなっちゃった」

「ゆい……」


 しょんぼりしたゆいと、


「りょーくん、おやつ」

「みさき……」


 お腹をすかせたみさき。


 ガシッ、と二箇所で音がした。


「ゆい。ゆいを誰かに任せる日が来ても、ママはずっとゆいのママですからね……うぅ、っぅぅ」

「むむむ?」


 どうして泣いているのだろうと首を傾けるゆい。


「みさき。俺は、例えみさきに相応しい野郎が現れても、俺は、俺は……くっ、ぐぐぅぅぅ」

「……んんん?」


 何故かギュッとされて嬉しく思いつつも、どうしてか泣きそうな声で言う龍誠に戸惑うみさき。



 五月五日。

 元来は端午の節句と呼ばれ、菖蒲しょうぶという薬草で無病息災を願う中国の行事だった。それがアレやコレやあって日本では「こどもの日」となり、子供が大きく成長することを願って鯉をのぼらせるようになった。


 だが、子供の成長とは何も嬉しいことばかりではない。

 龍誠と結衣は今、それを痛感していたのだった。

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