第95話 第四話:みさきと牛乳

 みさきが龍誠と出会ってから、早くも二度目の春を迎えた。変わったことは多くあれど、やはり変わらないこともある。そのひとつが、お風呂だ。


 あのボロアパートには寝る場所としての機能しか搭載されていないから、当然お風呂に入る為には家の外に出なければならない。幸いだったのは、みさきの小さな歩幅で歩いても二十分ほどで着ける場所に銭湯があったことだ。

 

「なんか、そのルミちゃんって子、そのうちルミミン星から来たとか言い出しそうだな」

「ん、るみみん」

「言ってんのか、マジか」


 時刻は午後六時を少し過ぎた頃。


「ふひひ、楽しそうなクラスですね」

「ああ。けど、みさきに悪影響が無いか心配だ……」


 くすくす笑う檀と渋い表情の龍誠。

 みさきは二人を交互に見ながら、てくてく歩いていた。


 少しずつ暗くなる空の下、みさきは痛そうなくらいに目いっぱい顔を上げて二人を見ている。一見すると転んでしまいそうな姿勢だが、その足取りはしっかりとしていた。


 三人が歩いているのは、民家の間にある細い道だ。ギリギリ車が一台通れる程度の広さしか無いけれど、一方通行の標識は無い。それが分かっている地元の人は基本的にこの道を避ける。遠方から来る車は隣の大通りを通るから、ここを車が通ることは滅多に無い。


 とても静かな道。

 聞こえて来るのは、微かな足音と楽しそうな会話だけ。


「集団登校、集団下校か……」

「ふひひ、懐かしいですよね。あの頃は私もモテモテ……あっ、なんでもないです忘れてください」


 龍誠が呟いたのは、その言葉を初めて聞いたからだ。彼が小学生の頃、登下校は車での送迎が当たり前だった。それを思い出して少し感傷的な気分になったのだが、そんなこと知る由も無い檀の見当はずれな言葉を聞いて、微かに笑った。


「小日向さん、みさきの面倒見てくれてありがとな」

「いえいえ、何度もとんでもないです」

「ほんと、感謝してる。ほら、みさきもレイ言っとけ」

「おじぎ?」

「そっちじゃない、ありがとうの方だ」

「……ん」


 こくりと頷いたみさき。

 みさきが足を止めると、二人もそれに合わせた。


「ありがと」

「……な、なんか、くすぐったいですね。ひひ」


 見るからに照れた様子の檀と、柔らかい表情をした龍誠。みさきも二人の姿を見ているとなんだか嬉しい気分になった。


「そういえば、みさきと小日向さんは何してたんだ?」


 ビクリと檀は肩を震わせた。

 もしも、万が一にでも例の漫画が話題に上がったら……。


 ゴクリと息を飲んで、檀はみさきを見守る。

 その手は汗でびしょびしょだった。


「……いろいろ?」

「そうか、いろいろか」


 ふぅ、と安堵する檀。いろいろというか、終始お絵かきしていたような気がするけれど、みさきちゃんがそう言うのなら、他には何も言うまい。


「小日向さんに遊んでもらったのか?」

「……ん」


 少し考えるような間を取った後、みさきは頷いた。

 実は、みさきは絵の練習をしていることを伏せている。理由は、ゆいが何度も繰り返す「サプライズ!」という言葉によるものだ。


「そうか、良かったな。……小日向さん、仕事の邪魔になったりしてないか?」

「いえいえ、私もみさきちゃんと遊べて楽しいですし、はい」

「そう言ってくれると助かる。でも、もしもアレだったら本か何か渡してくれれば……いや待て、本は止めておこう。あと五年、いや、十年待ってくれ」

「健全な本もありますよぉ! あと、そういうのはみさきちゃんの目に入らないようにしてますから!」


 どういう意味? 首を傾けるみさき。

 当然、まだ六歳のみさきに健全な本がどうとかいう話は分からない。だけど二人を見ていると楽しそうで、みさきはちょっとだけ「健全な本」という言葉に対する好奇心が芽生えた。




 そして銭湯に辿り着いた後、三人はいつものように二手に分かれた。去年の十月から今年の四月までの半年間、みさきは戸崎家に居たから、また檀と一緒に入るようになったのは最近のことだ。しかし、ある程度続けた事というのは簡単には消えないようで、二人は半年前と変わらない様子で銭湯を利用した。


 風呂上り。いつもは龍誠の方が早く上がるのだが、今日はいつもの場所に龍誠が居なかったから、檀はまだ入っているのかと思い、近くの椅子に座って待つことにした。


 檀が脚の上に乗ったみさきと一緒にボンヤリしていると、クイと、みさきが檀の服を引っ張った。


「ん? どうしたの?」

「……なに?」


 ピンと指を伸ばして、ある場所を指すみさき。檀がその方向に目を向けると、一組の親子が瓶に入った牛乳を飲んでいた。


「あれは牛乳だよ~」

「うしさん?」

「おー、良く知ってるね」


 パチパチ手を叩く檀。


「おいしい?」

「おいしいよ~、みさきちゃんは牛乳好き?」

「……ない」

「飲んだこと無いの?」

「ん」

「あれ、保育園の給食で出てこなかった?」


 こくりと頷くみさき。檀は「ほへー」と間の抜けた声を出した。

 一昔前では給食で牛乳を出すのが当たり前だったのだが、近年では牛乳による健康被害を問題視する声があって、給食で牛乳を出さなくなった保育園が有る。みさきの通っていたぽんぽこ保育園は、そのひとつだった。


 さておき、みさきは未知の食品に興味津々。その表情は檀の位置からでは見えないけれど、雰囲気だけは確かに伝わった。


「飲みたい?」

「んっ」


 頷いて、ぴょんと床に降りたみさき。早く早く、という目を向けている。


「ふひひ、可愛いなぁ」

「……ん?」

「なんでもないよー」


 よいしょと声を出して立ち上がる檀。そのまま売店へ向かって歩くと、みさきもピッタリ後に続いた。


「はい、どうぞ」


 牛乳瓶を二本買って、片方の蓋を開けてからみさきに差し出した。みさきは両手で牛乳瓶を受け取って、まじまじと見る。


「……しろい」

「うん、白いねー」


 くんくん。


「……くさい」

「ふひひ、零さないようにねー」


 そう言って、檀は自分の分の牛乳を一気に飲んだ。


「ぷはぁ、やっぱり風呂上りに飲む白濁液はうまいっ! あっ、いえ別にいやらしい意味では無くて、つい反射的にと言いますか、職業病的な……誰に言い訳してるんでしょうね私」


 ゆっくり視線を落とすと、みさきと目が合った。

 その無垢な目を見ているのが辛くて、檀は目を逸らす。


「おいしい?」

「……う、うん。おいしいよー」


 うそっぽいとみさきは思った。こんな臭い飲み物が美味しいなんて、ちょっと怪しい。


 なんだか疑われてる!? 檀は焦って、とりあえず牛乳のPRをすることにした。


「えっと、牛乳はね、栄養がたっぷりなんだよー」

「えいよう?」

「そう。カルシウムがいっぱいあって、背が大きくなるの」

「いただきます」

「アヘっ!? すごいっ、反応っ」


 背が伸びるという言葉に超反応したみさき。自身の低身長にコンプレックスのような感情があるわけではないが、おっきくなりたいという思いはある。例えば部屋のドアを開けるとき少し大変だったり、りょーくんと歩いていると何だか距離を感じたり、りょーくんと手を繋ぐ為にはもう少し大きくならないと辛そうだなと思っていたり、みさきにとって今のままの低身長は死活問題なのだ。


「……んん」


 見事な一気飲みを披露したみさきは、苦い表情をして牛乳瓶を顔から遠ざけた。それから大きく肩を上下に揺らして呼吸を整える。その姿を見て檀が少し頬を染めた理由については、きっと分からない方が正常だ。


 ぶんぶんと首を振った檀。


「ええと、みさきちゃん、大きくなりたいの?」

「んっ」


 みさきは力強く頷いて、グッと手を伸ばして檀に牛乳瓶を差し出した。もう一本! という意味である。


 みさきが自分の意思を強く示すのは珍しくて、檀は迷わず二本目の牛乳を購入しようとした。しかし直前で思いとどまり、みさきと目の高さを合わせてピンと人差し指を伸ばす。


「牛乳は、一本までだよ」

「……いっぽん?」

「そう、一本まで」

「……ん」


 心なしか安心したような表情で頷いたみさき。牛乳はみさきの舌に相当合わなかったらしい。しかし、飲まないという選択肢はみさきの中には無い。


「あしたも」

「うん、明日も飲もうね」


 こうして、みさきの牛乳ライフ(仮)が始まったのだった。目標はもちろん、りょーくんと同じくらい。

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