第30話 SS:ゆいと結衣
戸崎ゆいは、戸崎結衣の娘である。
同じ名前なのは、戸崎結衣が極度のナルシストであるとか、そういう理由ではない。
同じ名前だから、戸崎結衣はゆいを娘にしたのである。
詳しい話は別の機会に譲るとして、二人の間には少し特殊な事情がある。
ただ言えるのは、二人の姿を見てそんな事情を想像できる者などいないであろうということだけだ。
「ママ! ぶんすうおしえて!」
「どうしたのですか、突然」
午後8時。
保育園から娘を引き取った結衣は、寒空の下でも元気なゆいと手を繋いで歩いていた。
「みさきがわりざんをおぼえたの! ピンチなの!」
またみさきちゃんの話だ、と結衣は思う。
珍しい時期に転園してきた子のおかげで、ここ最近ゆいが明るくなった。
仕事の都合で会えないけれど、いつか必ずお礼を言いたいと思っている。
「少し前にゆいが掛け算を教えたばかりではありませんでしたか?」
「みさきはんぱない!」
元気なゆいに苦笑いしながら、結衣も同じようなことを考える。
子供は物覚えが良いといっても、話に聞くみさきちゃんの理解力は常軌を逸している。我が子についても天才なんじゃないかと鼻が高かった結衣だが、みさきちゃんの話を聞くと、ちょっとした対抗心のような感情が芽生えてしまう。誰にって、もちろん彼女の親に対してだ。
……きっと立派な方なのですね。もしかしたら教師の方だったりするのかしら?
「ゆい、分数は分数だと思うから難しいのです」
「むむむ?」
「まずは――」
すっかり暗くなった道を照らす月明かりの下、手を繋いだ親子は仲良く分数の話をしながら歩いていた。結衣としては保育園に通う子供が勉強の話ばかりするから、友達がいないのではないかと不安で不安で仕方なかったのだが、最近はみさきちゃんの話ばかりするので、予感が杞憂でなかったことに落ち込みつつ、娘に良き友人が出来たことを喜んでいた。
「ところでゆい、いよいよお誕生日が近付いていますね」
「うん! おたんじょうび!」
「その日は有休を取りました」
「ほんと!? やったぁ!」
まだ続きがあったのだが、結衣はゆいの反応を見て満足してしまった。この笑顔がまた見られるのなら、あのピアノも安い買い物だと思えてしまう。我ながら親バカだなと、結衣は笑う。
「ゆい、本日、私は新たな教訓を得ました」
「えー! ママまたせいちょうしたの!?」
「ええ、一流のレディは進化を止めないのです」
「かっこいい! あたしもママみたいなレディーになる!」
親バカでいいやと、結衣は表情を緩ませる。
「どんなきょーくん!?」
「よくぞ聞いてくれました。質問をするのはとても良い事です。私が新たに得た教訓、それは、本人から事情を聞かずに物事を決め付けるのは良くないということです」
昼間、ピアノについて親切に教えてくれた男性について思い出す。
彼は思っていたよりも少しだけ、ほんの少しだけ真人間だった。
「……どういうこと?」
ぽかんとする娘を見て、ゆいには難しかったかなと反省する。
「ゆい、今晩は何が食べたいですか?」
だから結衣は話を逸らすことにした。
「ハンバーグ!」
「はい、分かりました」
「わーい!」
あっさりと作戦成功。
嬉しそうにスキップを始めたゆいを見て、結衣は親として素直に喜ぶ。
「そうだママ、きいて!」
「どうしたのですか?」
「みさきは、ママがいないんだって!」
「……」
唐突に重たい言葉を無邪気な声で告げられて、結衣は反応に困った。
「そして、ゆいにはパパがいない!」
「……ゆい?」
「みさきのパパかっこいいって!」
「こら、そういうことを言ってはいけません」
「えー、いいじゃん!」
「よくありません。やめなさい」
ぶーぶー言いながら頬を膨らませる娘を見て、結衣は親として威厳のある態度を示しつつ、心の中では動揺していた。やはり、ゆいには父親が必要なのだろうかと。
常識的に考えれば、その方が子供にとって良い事だ。そうと分かっていても、娘に寂しい思いをさせまいと努力していた結衣は少なからず胸を痛めた。もちろん娘に悪気は無いのだろうが、だからこそ父親に対する憧れのような物を強く感じ取れてしまって心苦しい。しかし、父親を作ろうという気にはなれなかった。
どうして?
それもまた、別の機会に譲ろう。
「ハンバーグの件は白紙にします」
「えー! ごめんなさいー!」
娘から目を逸らして、結衣は遠くの空を眺めた。
どこか切ない表情を浮かべる彼女が何を考えていたのかは、きっと本人にも分からなかった。
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